自然は人間の所有物ではないし、社会システムの一部ではない。

人間と社会が自然の一部なのだ。

ならば、我々はこの自然に対して、どのように向き合うべきなのか?

開発と保護の対立の落とし所はどこに持っていくべきなのだろうか?


自然は、人間が作ったものではないし、人間が作れるものでもない。

我々は自然に対して働きかけることはできるし、何なら改変することもできるだろう。しかしそれは、あらかじめそこに改変可能な自然が在るからだ。

例えば、我々は有用な遺伝子を発見し、それを組み込むことで新しい有用な機能を持った生き物を作出できるかも知れない。

しかしそれは、有用な遺伝子がそこにあるからだ。人間に賢くなる遺伝子を組み込むことはできるかも知れないが、存在しないテレポーテーション能力の遺伝子は組み込みようがない。

遺伝子改変は、あくまでも与えられた遺伝資源に規定された範囲内でしかできない。

あるいは、遺伝子編集によって今まで存在しなかった遺伝子を作出することもできるかも知れないが、DNAシステムに依らない繁殖システムを作り出すのは無理だ。

遺伝子縛りのルールから我々は抜け出せない。

我々は、与えられた「自然」に規定され、その自然システムによって生きている。

肉食をやめて菜食主義者になることはできても、ビタミン、アミノ酸、糖分、塩分を消費せずに生きることはできない。


つまり自然とは、人間を生み出しただけでなく、こんなに便利になった今もなお、人間が生きていくために下りることのできない舞台である。我々はその舞台の上でだけ生きていけるし、舞台を壊してしまったら転落してしまうのだ。

そしてその舞台は、様々な生き物が織りなす自然のプロセスによって構築されている。


ゴキブリや蚊なんてこの地球に必要ないから滅ぼすべきだという、腹立ち紛れの意見を見かけることがある。

確かに家の中のゴキブリや蚊は、家にとっては不用な存在だ。だから家の中で根絶させても何の問題もない。

しかし、そのゴキブリも蚊も、自然の中では何らかの機能を担っているであろう。

例えば蚊がいなくなったら、近所のドブや水溜りは全て、強烈な悪臭を漂わせる腐った水になってしまうだろう。ボウフラは有機物を分解する機能を担っているのだ。

そこは良くも悪くも我慢して付き合うしかないところだ。我々はこんな星に生まれてしまったし、そんな環境でしか生きていけないのだ。


開発が直ちに悪だとは言わない。人間だって自然の一部として、生きるために必要なことをやる。

しかし、それはほどほどに止めておくべきだろう。他の生物を犠牲にするということは、我々が生きる土台を切り崩すということなのだ。

このくらいなら大丈夫、ならもうちょっとやってみよう、こんな感じで積み木崩しのように少しずつ切り崩していくうちに、突然全てがガラガラと崩れてしまったら、それはもう取り返せない。滅びた生き物は戻ってこないのだ。


そういう意味では、例えば山中に道路なんかを通す時に、小動物が車に轢かれないように、道路の下に通路を作っておくとか、

池を埋めて土地造成する時に、水生生物を残すための池を作るとか、ダメージを最低限度に抑えるための取り組みは有用であろう。

それにはコストがかかるが、それを経済的価値で測ってはいけない。

これは、自分の足元を維持するための取り組みであり、必要以上の破壊をもたらさないためにやるべきことなのだ。

我々が舗装道路を作るのは車を走らせたいからであり、小動物を轢き殺したいわけではないだろう。

森を切り開いて造成するのはそこに住んだり畑を作ったりしたいからだ。樹木を滅ぼしたいわけではない。

目的を達成するための余計な犠牲を最小限にするために、そこにあるものを護るためのもう一工夫が大切なのだ。

夏に家の中が暑いからといって、壁をぶち抜いて風穴を開けるマンガチックなヒトなんていないだろう。

エアコンを設置するよりも壁を蹴破る方がお安く済むが、その結果どうなるかは言うまでも無い。

最小限にすべきなのはコストではなく、余計な犠牲である。それは経済的価値だけで判断すべきことではない。


人間は、知らず知らずのうちに、自然から多くの恵みを受け取っている。

酸素は地球上に蔓延る植物が生み出している。

食糧生産は、太陽の光と雨水だけではなく、様々な有用生物が知らぬ間に働いていることで成立している。

それは当たり前に与えられた舞台であり、その舞台があることの有り難みを理解しなければいけない。


アマゾンのジャングルを、ほんの少し伐採したからといって大勢には影響しない。

しかし、それをどんどん拡大していくと、

あの内陸の熱帯地域では、突然砂漠化が始まるかも知れない。

それはやってみないと分からないことだが、やらかしてしまったら元には戻らない。

有史以前は緑の大地だった北アフリカがサハラ砂漠になったように、

あるいは豊かな草原が広がっていた北米がサボテンの荒野になったように、

過去から学べることがある。

広大なアマゾンが砂漠になってしまったら、ブラジルの人たちは生きていけまい。

後戻りできないが故に実験不可能なことに、実証的根拠を求めるべきではない。

それは温暖化対策も同じことだ。

人間は野生動物とは違って、未来に起こり得ることを予測することができる。その力は、内向きの陰謀論なんかで浪費するのではなく、外の現実に向けて使うべきなのだ。


自然は美しいから価値があるのではない。

経済的利益をもたらすから護らなければならないのではない。

自然は自分が生きるための土台であり、健全に在ること自体が問答無用の価値である。

特に、普通に繁栄していた生き物が減少するというのは、やはり何か大きな問題の予兆と捉えるべきであろう。

自然に適応して繁栄していたヤツらは簡単には滅びないし、それが滅びかけるというのは、奴らが適応していた自然において何か大きなピースが脱落してしまったということなのだ。

積み木は明日にでも崩れてしまうのかも知れない。