二つ目は、人間活動のせいで滅びてかかっている生き物である。


かつて繁栄し、そして何もなければ今も繁栄していたであろう生き物が、人間に獲り尽くされたとか、自然の生息環境を破壊されたとか、そういう理由で絶滅が危惧されることは少なくない。


何度も例示しているニホンオオカミやニホンカワウソは既に絶滅してしまったとされる。

滅びかかっているものとしては、トキ、コウノトリを筆頭に、アホウドリ、ヤンバルクイナ、イリオモテヤマネコ、ツシマヤマネコ、等々。

海外に目を向けると、北米のバイソン、プレーリードッグ、既に滅びたリョコウバトなんかが直ぐに思い付く。

開発が進むアマゾンの生き物や、アフリカで密猟される生き物たちなんかもそうだし、オーストラリアの有袋類なんかもヤバいヤツや滅びたヤツがたくさんいる。

この手の話は、「人類は地球を滅ぼす病原体」説や「未知のウイルス病のアウトブレイクは自然からの復讐」説の有力な根拠(?)として用いられてもいる。


実際、人類は自然環境をかなり破壊してきた。

それは開発目的だけではない。

ヨーロッパなんかは、何百年にも渡って戦乱が繰り返されて国土が荒れ果てて、自然の草地生態系がかなり失われたようだ。

あちらの植物学者が日本に来ると、山道をほんの少し歩いただけで実に多くの植物種に出会うことに驚くそうだ。

そら、一面の小麦畑とは真反対の光景だろう。(笑)


さてこのように、開発等によって生息環境が破壊された結果、適応度が高く、繁栄していたハズの生き物が滅びてしまうというのは、やはり異常事態であろう。

各地で問題になっている外来生物なんかに目を向けると分かるのだが、地域の環境に適応して繁栄している生き物を根絶するというのは並大抵のことではない。

それは狩って狩り尽くせるものではない。

外来生物対策の難しさは、街中にせよ、原生林の中にせよ、彼らが適応しているその環境を破壊できないから根絶できないというのが根本にある。


地域の自然環境に適応して繁栄している生き物が滅びるというのは、その生息環境を破壊してしまうような大規模開発の賜物だろう。

大規模な都市開発、広大な農地や牧場の造成、そのために「こんな湿地はいらない」「こんな森林は邪魔」としてそこを破壊し、造成してしまうことは、そこにいた生き物を容易に丸ごと滅ぼしてしまう結果を招く。

しかし人類は、長らくこんなことを繰り返してきた。

自分たちの目先の利益を追求した結果、他の生き物を犠牲にしてきたのだ。


このような開発に伴う犠牲は、どうしたものだろう?

人間が人間の幸せを最優先するのは当たり前だ。しかしそれだけで良いのだろうか?

少し落ち着いて考えてみよう。


例えば、日本全土よりもはるかに広いアマゾンを保全するためには、膨大なコストがかかる。

その一部を削って自分たちの豊かさを追求するのは悪いことなのか?

先進国だって、かつてあちこちを植民地にして無茶苦茶やってきたではないか。それを今になって自然保護のために開発を我慢しろなんて、ブラジル人にとっては無体な話だ。

砂漠だらけの産油国は、何もない土地を露天掘りしまくって石油一つで大儲けできるのに、アマゾンを抱える国々だけが割を食うというのはおかしい。先進国は、アマゾンの保護と引き換えにブラジル人が遊んで暮らせるほどの資金を寄越すべきではないのか?


そもそも自然というヤツは、そんなに必死になって護らなければいけないものなのだろうか?

開発をする者が利益を得るというのは分かる。しかし自然を護ることで、どんな利益があるのか?

遺伝資源の保全?それならDNAだけ抽出してジーンバンクのマイナス80℃冷凍庫にでも保存しておけばいいではないか。

自然保護vs開発の問題を単なる利害対立として捉えるのならば、そこで護るべきは自然ではなく自然から収奪できる利益だという話になる。

そしてどっちに転んでも、最後に自然は失われてしまうのだ。


そうではなく、自然にはお金に変えられない価値があるのだという見方もあろう。

様々な生き物が織りなす美しい自然の風景は、人々の心を和ませたり、ワクワクさせたりする、なにものにも変え難い心の財産である。

これをお金で買うことはできない。

単なる経済的利益をめぐる利害対立ではないのだと。


しかし、「自然の美しさ」って何だろう?

我々が知っているのは、例えば美しい自然の風景だったりする。

しかし自然は本当はそんなに「美しい」ものではない。

豊かな湿地のなかを、膝まで泥に浸かりながら、群がり寄ってくる蚊やアブを払いながらもがき進んだ経験のある人なら、それが決して「綺麗な」ものではないことを知っているだろう。

森の中に横たわる腐敗した動物の死体とそこにたかるニクバエ。

ジメジメした密林の中で這い寄ってくるヒルや、落ち葉の下にヌメーっといるミミズやナメクジや線虫。

綺麗な小川の水なんて、上流では野生動物が口飲みしたりオシッコしたりで、大腸菌だらけかも知れない。

本当の自然というのはそんなものだ。


これに対して、我々が日頃楽しんでいる「美しい自然」なんて、排気ガスを撒き散らしながら車でアクセスし、

電気ガス水道が完備された建造物の中の、虫一匹入ってこないエアコン完備の部屋の中で、

その土地とは縁もゆかりもないコーヒーや紅茶を楽しみながら、窓の外に広がる誰かが機械で整備した「美しい自然の風景」を眺めているだけではないのか?

そこで護ろうとしている「美しい自然」とは、結局は人間が寛げるように造られた観光資源に過ぎない。

我々が知ってる「自然の美しい風景」なんて、テレビ番組にせよ、ネットニュースにせよ、誰かの宣伝で目に入るものだけだ。

そして我々はその地への観光旅行に胸躍らせて、しっかりお金を落としてしまうのである。(笑)

つまり、行き着く先は経済的利害の話になってしまう。


なんでこんなコトになってしまうのかと言うと、それは自然の価値を現代人の価値観で測ろうとするからだ。

自然の価値を遺伝資源と見るのか、美しい観光資源と見るのか。

そこにある「自然」は、現代人の価値観で評価され、現代社会のシステムに組み込まれ、結局経済的評価に置き換えられる何ものかである。

しかし、自然は人間社会の一部ではない。

人間社会が自然の一部なのだ。

自然の価値を人間の価値観で測り、評価し、その存亡を決定する、こんな倒錯した発想は土地所有権なるお約束が生み出した幻想であろう。

土地を所有するということは、その土地の自然を所有するということであり、所有者は社会のルールに従って好きなようにできる。

このお約束に囚われている限り、自然保護と開発の問題は利害関係の問題にしかならない。護べきは自然ではなく、自然から収奪される利益の方だということになる。


それでは、価値観の転換を考えてみよう。

自然は人間社会の一部ではない。人間社会が自然の一部だということを意識して、「自然の価値」を捉え直してみたらどうなるか?