戦後に政府が真っ先に取り組んだのは、食糧増産と空襲で焼け落ちた街の復興である。

農林水産業の振興に多額の補助金が投入され、大学で学んだ技術指導者が全国に配置された。

儲かる産業を支える農山漁村は賑わったことだろう。

補助金ばら撒きで農山漁村に地盤を固める自民党の戦略が出来上がったのもこの頃だろう。

人口の多い都市部で難しい政策を唱えて頑張るよりも、人口の少ない田舎で補助金を餌に票を集める方が議員数を確保しやすいのだ。


しかしやがて、値段の安い外国産農水産物と外材の輸入が始まり、農山漁村は衰退し始めた。

人が減り、管理が行き届かなくなった山村に野性獣が出没し始める。そこで美味しくて栄養価の高い農作物の味を覚えた野性獣は、山村を餌場として次第に数を増やしていった。

人はどんどん都会に流出して山村の過疎化が進み、増える獣圧に耐えられなくなってきた。

かつて山間特有の問題であった野生獣被害はやがて中山間にも拡大し、近頃は街中にまで出てくる始末だ。

この問題をどう捉えたらいいのだろう?


山間や中山間の集落が、野生獣と戦うためにやるべきことは明白だ。

野生獣は、入ってはいけない土地とそうでない土地の区別が付かないし、食べていい餌と食べてはいけない餌の区別も付かない。

だから、集落と山林の境界を明確にして、入ってはいけない場所に入られないようにするのが基本だ。つまり、野生獣の縄張りと人間の縄張りの線引きを形にするということである。

畑や、場合によっては集落全体を柵で囲んでガードし、境界の雑草、雑木を処分して身を潜める場所を無くすことで、野生獣が近付きにくくする。それでも入ってくる個体は捕獲だ。

最近は、野生獣の肉をジビエとして特産化することで猟師を増やし、自然個体群が増えすぎないように個体数調整することにも取り組まれている。

こういった対策は、シカ、イノシシだけでなくクマやニホンザルにも適用できる。


しかし、元々社会情勢の変化によって過疎化と高齢化が進む集落では、柵を設置して保守管理したり、境界の雑草雑木を処分したり、野生獣を捕獲する人手の確保も難しくなってきている。

ジビエのように供給が安定せず、味にもクセがあり、値段が高い肉は、物珍しくて高級な嗜好品になり得ても、牛肉や豚肉のような産業にするのは難しい。

最近は、都会勤務の代わりに田舎住まいのリモートワークを推奨することで過疎化に歯止めをかけようとする試みもあるが、総じて焼石に水の観がある。

野生獣被害の問題を、過疎地に生きる個人の問題ではなく、社会の問題として捉えるならば、結局は山の過疎地を放棄して対獣戦線を後退させ、人が普通の生活水準を維持できる街の守りを固めるべきなのかも知れない。


ただし、これは目先の対策のためのコストパフォーマンスだけで考えた場合の話である。

農山村が獣圧で滅びた後、この国は本当に国としての形を保てるのだろうか?

極端な話、国産野菜や果物が無くなり、家を建てるための木一本すら自力で賄えなくなった国は、果たして独立国家としてやっていけるのか?

守るべき前線をどこに置くのかは、大変難しい問題である。


人と野生獣の生存権の対立の問題は、その現場にいる個人の問題であると同時に、社会としてこの国の形をどのように保つのかという問題でもある。

その現実の問題を、夢見がちな人々の、空想上の「優しい動物物語」にしてしまってはいけない。

また、単に公金の配分をどうするかという利害関係の対立にすり替えてもいけない。

この国で生きていく上で、この国の野生獣とどのように付き合い、どこで折り合いを付けるのか。

議論の場として相応しいのは、空想を語る人たちが集うネット上でも、利害調整を行う国会でもない。そもそも、こういった議論を行う場は存在しない。


と、ここまで考えてみると、こういった問題は、そもそも議論で決着させるようなものではないという事に気付かされる。

人口減少時代にあって、高齢化が進む限界集落のいくつかは、獣圧の有無に関わらず、今後数十年の間に消滅するだろう。

別に誰が悪いわけではない。

様々な人たちが様々な思惑を持って生きる中で、成り行きに任せるしかないのだろう。

そんな中で、日頃街中に生きる人間が心の片隅に留めておくべきことは、こんなに便利な時代になったとて、所詮我々は自然の中で知らぬ間に生存競争に晒されて生きている脆弱な動物の一種に過ぎないという自覚だ。


もし、遥かな未来に、

映画「マトリックス」のように、全ての人類が電脳プログラムに支配され、マシンが見せる夢のバーチャル世界に生きるような時代が来たとして。

その世界を滅ぼすのは、超ハイテクプログラムが決定した命令でも、

超絶能力を持つ救世主でもないだろう。

その世界を滅ぼすのは、配線を噛みちぎってサーバーをダウンさせる、一匹のネズミであるに違いない。