江戸時代の農書には、農具の一つとして鉄砲が出てくるらしい。

猟具ではなくて農具である。つまり昔の農家さんも、野生動物の被害と戦っておられたのだ。


さて、時は下って近年。

イノシシやシカなどの野生獣による農業被害が世間で問題になり出したのは、かれこれ30年くらい前のことだ。

最初は山間の集落から始まり、中山間、平野部と、少しずつ被害地が拡大していった。その背景には、イノシシやシカの自然個体数の急増がある。


30年以上前は、野生獣なんてそもそも出没しなかった。

猟師さん曰く、毎週週末に山に入っていても、昔はシカやイノシシなんて滅多に見かけなかった。1シーズンに1頭仕留められたら幸運な方だった。

それが今は、ちょっと山道を走っていると、しょっちゅうシカが出てくるし、集落はイノシシの堀跡だらけだ。

つまり、日本人の多くは、「野生獣のいない国」に長らく暮らしており、今の被害急増は青天の霹靂のような異常事態なのだ。と言っても、もう、かれこれ30年ほど続いているのだが。(笑)


しかし、最初に述べたように歴史を紐解くと、ずっと続いていた野生獣のいない状態がむしろ異常であり、江戸時代には鉄砲が農具に数え上げられる程度に野生獣は身近な存在だったのだろう。

それがなぜ長い間減ってしまっていたのだろう?


明治維新後、シベリア出兵を目指す陸軍が、毛皮目当てで全国で山狩りのように大々的に野生獣を狩りまくったという記録があるらしい。ニホンオオカミも、この時に激減したようだ。猟友会は、減ってしまった自然資源を滅ぼさないよう、狩猟数に一定の制限をかける目的で結成されたようだ。

その後「平成たぬき合戦ポンポコ」にあるように戦後の宅地造成などで身近な野山が切り開かれ、あるいはエネルギー源が石油に切り替わっていくことで薪炭林が消えていき、さらに拡大造林政策で広葉樹の森が大規模に針葉樹林化し、豊かな自然環境が失われていったことで、長らく野性獣の密度が回復できなかったようだ。


それがなぜ最近になって、野生獣は再び増え始めたのだろう?


野生のシカやイノシシが増えたのは、ニホンオオカミが絶滅したせいだと主張する人々がいる。

中には、野生獣対策のためにシベリアオオカミを導入すべきだとする意見もある。

しかし、ニホンオオカミがまだたくさんいた江戸時代には、シカもイノシシもたくさんいたのだ。

ニホンオオカミが絶滅したのは大正時代だが、それからシカやイノシシが再び増え始めるまでには相当のタイムラグがある。

ニホンオオカミのような捕食者がいる方が、いないよりはマシなのかも知れないが、ニホンオオカミがいなくなったせいでシカやイノシシが増えたというのは普通に考えておかしい。

今シベリアオオカミを導入したら、豊富な餌を背景にしっかり定着してくれるかも知れないが、それでシカやイノシシが昔のような低密度になるとは考えにくい。

普通に考えると、シカもイノシシもオオカミもたくさんいる生態系が構築され、シカやイノシシによる被害に加えてオオカミによる被害が増えるだけだろう。(-。-;


最近の野生獣増加の最も大きな要因と考えられているのは過疎化だ。

山間、あるいは中山間の集落で過疎化が進み、昼間も人気が少なくなった。また、山と集落の境界には管理されない雑草地が増え、耕作放棄地には野良野菜や放任果樹が増えた。

警戒心の強い野生獣は、山との境界の雑草地に身を潜めて集落にアクセスしやすくなり、人気の少ない集落には栄養価が高くて美味しい野菜や果物がたくさんある。

ただでさえ怖いイノシシなんかが、野良野菜や放任果樹を食べているからと言って追い払う人はいない。むしろ静かにその場を離れようとするだろう。

そこを良好な餌場と学習した野生獣は、繰り返し集落に下りてきて、人慣れも進む。そして、民家近くの管理された畑の作物にまで手を出し始める。

野生獣の個体数を短期的に規定する要因は、冬の死亡率である。

野生獣は、寒くて餌の少ない冬にたくさんの個体が餓死してしまう。

しかしその冬場さえも栄養価の高い農作物なんかが豊富にある集落に下りてくるようになったら、野生獣は栄養状態が向上して冬期死亡率は低下するし、産仔数も増加する。

こうして、野生獣は過疎化の進む集落に「攻め込み」ながら増えてきたのだ。


これはつまり、人と野生獣の生息空間の境界で起こっている生存競争である。

人が山を荒らしたために、棲家を奪われた「可哀想な」野生獣が仕方なしに里に下りてきたのではない。過疎地の増加を契機にして増えた野生獣が、どんどん溢れてきているのだ。


これが今起こっていることである。

シカとイノシシを例に挙げたが、ニホンザルの場合は、さらにかつて研究者らによって行われた餌付けが最初の契機になったとの指摘もある。

クマが増えてきた原因は集落の野菜とは関係ないと思うが、いずれにせよ増えているのは間違いない。彼らは決して人間に山を追われて里に下りてきたわけではないのだ。


まず大切なことは事実確認と冷静な考察である。

「人間の犠牲になって」「自然破壊に対する復讐として」などというテンプレ説明に落とし込んでも、その先入観は誰も幸せにできないのだ。