ジレンマの3つ目はコレである。


③静的保護と動的保護の対立


これは文化財なんかの保全でよく言われる、「静的保全」と「動的保全」というのをパクってきた言葉である。(笑)

まずはこちらで説明してみよう。

静的保全というのは、例えば高松塚やキトラ古墳の壁画の保全だ。壁画の経年劣化を止めて、現状のまま「凍りつかせる」保全のやり方である。

これに対して、動的保全というのは伝統的な営みの保全などが該当する。例えばお正月のおせち料理なんかだ。

おせち料理は日本のお正月の伝統である。

重箱の中にさまざまな料理が入っている。

それぞれに縁起物としての理由があるが、各家庭でどんな素材を使うかは千差万別であろう。

また、自分で作るのは面倒くさいので、買って済ませる家庭も多い。ウチなんかがそうだ。(笑)

このように、おせち料理の中身とその在り方は、時代や地域によって移り変わってきた。

しかしどんなに移り変わっても、お正月に食べるものとしてのおせち料理の伝統は健在である。

はるか昔に始まった、おせち料理の起源メニューを完全再現したものを、どこかの和食店でいつでも食べられるとしても、それは「おせち料理の標本」みたいなモンであって、「生きたおせち料理」ではない。

時代と共に中身は移り変わりつつも、各家庭でお正月に食べるアレが、暮らしの中に息づく生きたおせち料理なのだ。そしてこの風習が代々伝わる限りは、その中身や在り方がどんなに変わってしまっても、おせち料理という文化は伝承される。

これが動的保全の考え方である。


自然保護の場合はどうだろう?

絶滅危惧種の生息場所をそのままの状態で維持し、滅びないようにする。遺伝子構成なんかも変わらないよう、外部からの移入がないようにガードする。

滅びかかった生き物を、そのままの状態で現状維持するよう常に管理し続けるというのは静的保護と言えるだろう。


一方、自然というのは移り変わるものである。

もし絶滅危惧種が、開発の荒波を被ることなく繁栄していたら、恐らく彼らは自然の営みの中で増えたり減ったりしながら、そして互いに離れた地域個体群が交流もしながら、移り変わりながらも生き続けていただろう。その変化を人為的に「凍りつかせる」というのは、自然保護のように見えて自然保護ではないのではないか?

成り行きに任せ、自然の営みの中で移り変わりながら存続するように手出しを最低限にする。

これが動的保護の考え方である。


実際に、自然保護を行おうという時、どこまで手を出すべきなのかは悩みどころであろう。

例えば、標高の高いすり鉢状の地形の底にできる池なんかは、次第に土砂が溜まっていって水深が浅くなる。

池が沼になり、湿地になり、最後は乾いた草原へと遷移していく。

この自然の遷移が少しずつ進む中で、貴重な水棲動植物や湿地性の生き物が見つかった時はどうしたらいいのだろう?

底の泥をさらえて、水道水を流し込んででもその生態系を守るべきなのだろうか?

あるいは、貴重な生き物がどこか近隣の水系で生き残る幸運を願いつつ、黙って自然の営みを見守るべきなのだろうか?

人間が何もしなくても、環境の変化に抗えずに絶滅するというのも、何億年も前から繰り返されてきた自然の営みである。


これと関連して、ダーウィンが面白いことを言っている。

生物個体に寿命があるように、生物種にもまた寿命がある。

どこかの地域で新たに出現した種は、少しずつ増殖しながらその分布を広げていく。

新たな地域に進出した者たちは、そこの環境に適応して新たな亜種や変種を生み出しながら、さらに分布を広げていく。

やがて広範囲に分布を広げる頃には、多くの変異体、亜種、場合によっては近縁の別種を含む大きなグループとして繁栄する。

その後、それぞれの地域に適応した種や亜種たちは、それぞれの生息地域の環境への適応を進めながらさらに繁栄するが、所与の環境への適応が進むということは、突然の環境変化への対応力を失っていくということでもある。

やがて、それぞれの地域で衰退が始まる。

それは気候の変化であったり、新たな強力な競争相手や捕食者の進化によるのかも知れない。

そしてそれぞれの地域で衰退が進むことで、広い地域内に点々と分布する絶滅危惧種となる。高山に取り残された氷河期の遺存種なんかがその典型だ。

その果てに、やがて生物種は緩やかに絶滅していくのだろう。


実際に絶滅危惧種の保護に携わる人たちは、静的保護と動的保護のジレンマなんて意識していないのかも知れない。

アフリカゾウの保護を携わる人たちは、象牙の密猟を取り締まることはあっても、ゾウが減らないように餌を与えて餌付けしたりまではしないだろう。ただ彼らが生きていける自然環境を整えようとするだけだ。

コアラの保護をする人たちは、怪我したコアラやお母さんとはぐれたコアラを保護し、保護センターで野生復帰の訓練を施して自然に返す。また、山火事の後はユーカリを植林して生息場所の維持に努める。

こういった取り組みは、どこまでが静的で、どこからが動的なのかを直ちには切り分けられない。それぞれの現場に応じた折り合いの付け方があるのだろう。

しかし、もはや野生状態での維持が難しくなってきたら、その時はどうするのだろうか?


人間は未来を予測できる動物である。

だから、滅びつつある生き物の運命を予見して保護したりするわけだ。

しかし、当の動物たちは未来なんて予見しないし、種族の維持なんて気にしていないだろう。彼らが望むのは、自分とせいぜい家族の生存だけであろう(「種の保存本能」というのは、ネットでよく見かける勘違いの一つである)。

例えば、絶滅危惧種の保護の一つとして分散飼育というのがある。パンダなんかでやられている。

世界中の複数の動物園でパンダを分散飼育することで、絶滅リスクを下げる。

そのままでは、近親交配が進んで近交弱勢を起こすので、ときどき個体を交換することで遺伝的多様性も維持する。

パンダという種族の保護のためには良いやり方だ。しかしそれは、当のパンダにとっては幸せなことなのだろうか?

種族の維持のために、本来の生息場所とは異なる環境の檻の中で、あてがわれた異性と交配させられる。

それは、マンガやドラマにありがちな、お家の維持のために親が決めた許嫁と結婚しなければならないストーリーと同じだ。

そんな人生を生きるくらいなら、野生のまま滅びを受け入れる方がマシだったりしないのだろうか?


静的保護と動的保護の対立軸で自然保護を捉えた場合、優先すべきは種の維持なのか、それとも絶滅も含めた自然の営みの維持なのかが問題となる。

そして、種の維持という目的は、最後は人為による静的保護とならざるを得ない。

しかしそれを望んでいるのは誰なのだろうか?