ここからはまず、過去の様々な「自然保護」の事例について考えてみたい。


それは別に、そういった取り組みが間違っているとか、自然保護ではないとか言うのが目的ではない。

様々な事例について、ここまでの「自然の定義の難しさ」に関する議論の中で明らかになった論点を当てはめて考えてみることで、次の突破口を見つけたいだけである。

では、まず最初に「復活プロジェクト」という面白いネタを取り上げてみる。


トキの復活プロジェクトというのがある。

トキは、かつては日本中の田園ならどこにでも普通にいた鳥だったらしい。

それがいつの間にかどんどん減っていき、気が付いた時には佐渡島にわずかな頭数を残すだけとなっていた。

原因は、開発による環境変化とか、水田での農薬使用とか色々言われているが、済んでしまった事象の原因を実証的に確定するのは困難である。


さて、この減ってしまったトキを保護し、増やすための努力が、志ある有志の手で続けられていた。しかし、ついに残り数頭となった時に、野生での増殖は無理として残ったトキは全て捕獲され、飼育環境での繁殖が試みられた。

しかし、これも失敗。遂にトキは絶滅してしまった。


ここからが本題である。

日本では絶滅してしまったトキが、お隣の中国で発見されたのだ。

こんなコトを言うと怒られそうだが、地理的に見ると日本なんて大陸中国の横にへばりついた小島である。

かつて大陸の一部として陸続きだった時代もあるし、離れた後も海を超えて渡る生き物の細々とした交流は続いている。

インフルエンザウイルスを携えて渡ってくる各種水鳥はもちろん、長距離飛来性害虫は毎年飛んでくるし、昨年対馬で見たかったカワウソは大陸系統だったらしい。

固有種が多いとは言え、大陸の影響も色濃く受ける。これが日本の生態系の特徴である。

だから、日本固有種とされたトキが、実は中国にいても全く不思議ではない。


中国のトキは、様々な検討の結果、日本のトキと同じものとされた。

そこで中国のトキを譲り受け、佐渡の地で再び繁殖が試みられて、野外に放つ計画がスタートした。トキ復活プロジェクトだ。

このプロジェクトは上手く行ったようで、佐渡島には野生化したトキが定着している。


ここで素朴な疑問がある。

中国のトキは、本当にかつて日本にいたトキと同じなのだろうか?


いや、トキ復活プロジェクトは無意味で無駄だとか、外来生物の不適切な導入だとか言いたいわけではないのだ。

例え由来が中国であったとしても、鴇色のトキが夕暮れの田園を舞う姿は美しいに違いない。それは価値のある風景だ。

ただ、これは本当は「トキの復活」なのだろうか?

どちらかと言うと、「人為による新たな自然の構築」なのではないだろうか?

それは、人為による都市文明の創造と何が違うのだろう?


似たような復活プロジェクトは他にもたくさんある。

自生地が荒らされて絶滅しかかっている植物を、組織培養で増殖させて自生地に植え、枯れないように管理するプロジェクトはあちこちでやられている。

昔は普通に見られた綺麗な植物が、いつの間にか滅んで見ることができなくなったとか、ここにしかない珍しい生き物が絶滅してしまったとか、そういうのは理屈抜きに残念なことだ。

あの手この手で滅びないように維持したいというのは誰でも思うことだろうし、その取り組みを否定すべきではない。

しかし、これもまた「人為」であり、しかも「所与のこと」ではない。


ここでふと気付くのだが、自然保護というのはそもそも人為であり、所与に逆らう試みなのではないだろうか?

「人為ではないこと」あるいは「所与のもの」と仮に定義していた自然を、「所与」に逆らって「人為」で保護しようとするのが自然保護なのではないか?

この倒錯した構造をどう捉えたらいいのだろう?