前節では、論理的必然性をもって語られる「第一原因としての神様」と、それに対するイデア論の説明を紹介した。

そこでは、この世界は最上位イデアとしての完全無欠の神様を第一原因として、そこからの流出によってスタートしたとされた。

何とも魅力的な形而上学的な説明体系である。(笑)


このような捉え方をしてしまうと、その論理的帰結として次のような考えが導かれる。

この世界において、真に存在すると言えるのは、完全無欠な神様のみである。

我々が日頃目にする様々な存在物は、自分自身も含めて、いずれも完全無欠の神様に依ってのみ存在することができる不完全な存在である。だって、我々は全て「完全な神様からの不完全な流出物」に過ぎないのだ。

神様が存在するからこそ、その流出物である世界も私も存在できる。神様がいなければ世界も私も存在し得ない。

真面目な西洋人が毎週熱心に教会に通い、事あるごとにマメに神への感謝を口にし、ビックリしたら Oh, my god ! なのは、このような認識に基づいているのだろう。


そしてこの見方をナンセンスとぶった斬ってしまったのは、誰よりも熱心で賢いキリスト教徒だったエマニュエル・カントだったというのは何とも皮肉である。

詳細は別の論考で繰り返し説明しているので省略するが、カント曰く、

「不完全な人間が完全な神様について語れるハズがないじゃん。」


不完全な人間が、不完全な言葉で、完全無欠の神様を説明できるはずがない。確かにその通りだ。

我々は神様について語ることも、理解することも、認識することもできないし、信じるコトすらできない。

もしワタシが今ここで神様を信じたとしたら、その瞬間にワタシが信じたそれはもはや神様ではなく、不完全な神様の偶像になってしまう。

つまるところ、「神の存在証明」なんて原理的に不可能だし、ここまでワタシが延々と説明してきたコトは全て、神様の説明としては間違っているのだ。これらは全てワタシが不完全な人間の言葉で紡いだ不完全な偶像の説明に過ぎない。

とんでもないちゃぶ台返しである。


さらに先に進もう。

我々は神様を認識することすらできない。我々が言葉で語り、理解したと思っているのは偶像であって、本物の神様ではない。

これは言い換えると、神様は我々に対して何もできないというコトを意味している。

なぜなら、我々が神様を認識すらできないからだ。

もし本物の神様が我々に対して何らかの影響を与えることができるのであれば、その影響を通じて我々はその神様を僅かでも認識できるだろう。

しかし我々は神様を認識できないのだ。

「不完全な我々は、完全な神様の全体像を把握できないが、不完全ながらも神様の一端を把握することができる?」そんなのは日常レベルの存在と認識の話である。

完全無欠であるということは、そのほんの一部でも損なわれたら、もはや完全無欠ではない。神様とは完全無欠であってこその神様であり、そのほんの一部がちょっぴりでも失われたら、それは完全無欠とは無縁の何者かであろう。

このことはつまり、神様とは我々にとっては無いに等しい対象だと言うことだ。

存在するのは我々の認識が生み出した偶像のみであり、その向こう側に「本物の神様」なんていない。


何を言いたいのかと言うと、そもそも「完全無欠」なんて性質は虚構に過ぎないというコトである。

「第一原因としての完全無欠の神様」は、単に実在しないだけではない。認識としてもあり得ない、完全な無なのだ。

それは、数直線上の0ですらない。

ワタシが今この瞬間に思い付いた虚構「v0〆°た"6」が、「v0〆°た"6」という名称で表される前の状態であり、何らの認識もない全くの無なのだ。


哲学の考察であればここで終了である。

語り得ぬものについては沈黙すべきである。

その沈黙こそが、辛うじて神様の外縁に触れる術なのであろう。

しかし、これは科学でも哲学でもない。ネオ・オカルティズムである。


なぜ我々は、このような誤謬推論の神様を概念として抱えていたのだろう?

それに何の意味があったのだろうか?

ここからは、いささか詩的な考察になってしまう。


数学的な比喩を用いるならば、完全無欠とは無限大♾️である。

それはあらゆる存在の彼方にある、決して辿り着けない彼岸であるが故に無でもある。

このように、我々は「完全無欠な神様」について考え、それが誤謬推論であることを理解することで、無と無限大♾️の概念を感覚的に定立できる。そして無から無限大♾️へと至る、無限の論理空間を手にするのだ。


我々は全てを包含する世界について考え始めた途端、「世界の外側」を想定してしまう。

時間が始まった始点について考え始めた途端、「時間が始まる前」を想定してしまう。

時間と空間は、我々が生得的に持つ認識のフォーマットに過ぎない。

そして、その時間と空間を知性で考えることによって、初めてそのフォーマットが無限設定であることを理解する。

我々が無限大♾️を経験できないにも拘らず、無限大♾️の性質を理解できるのは、その概念を載せるイデア的な論理空間が無限の大きさを持つからだ。

だから我々はどこまでも大きな数字を扱うことができるし、その極限にある無限大♾️も扱うことができる。


知性によって耕された広大な論理空間に芽生えたものが、やがて理性の樹に育つ。

「世界のイデア」としての完全無欠の神様が、我々の理性を育むのだろう。