「神」という概念は、言うまでもなく、多義的である。


前節では「神様は実在しない」てな話をしたが、もちろん、天皇陛下を神と崇める方々にとっては、神様は実在するであろう。

しかしこのような議論には大した意義はない。

人間として実在する生け神様と、アニミズムにおける自然の万物に宿る神様と、西洋哲学的な世界の起源となる神様では、それぞれ神の定義が異なる。

すなわち定義の異なる対象に、同じ「神」という言葉を当てはめているだけである。

ここでそれぞれの立場の神を持ち出して、実在の有無に関する議論を戦わせるのは、バスケットボールとバレーボールの異種格闘技戦のように果てしなく不毛であろう。

また、このような同音異義語をごちゃ混ぜにして、「神の定義は人それぞれ、信仰も人それぞれ」と言ってみたところで、その命題には中身がない。人それぞれで終わってしまうその命題は、「神様」について何も説明していない。

このような思考停止の安楽椅子は、真理性とは無縁である。


一方、世界の起源にして第一原因である神をとことん追求した西洋哲学の議論の果てに、カントは「神は理性の誤謬推論であり存在証明はナンセンス」として神の死亡診断を行った。

ついでニーチェは「神は死んだ」と宣言して葬送の儀を執り行い、ヴィトゲンシュタインは「語り得ぬものについては沈黙すべき」として神を決して届かぬ彼岸に送り出した。


その後の混乱は見ての通りである。

神様の死を受け入れ難い人たちの受け皿として、得体の知れないカルト教団が乱立し、宗教的対立・紛争は止まることがない。

ネットサイトでは、熱心に神様を信じるヒトたちが、指摘するのも馬鹿らしいほど幼稚な「神の存在証明」を盛んに喧伝し、「認めないのは無知、理解しないのは愚か者」と宣っている。その暴言を諫める神様は最早死んでしまっていないのだ。

つまり、宗教的対立の根本的原因は、それぞれの神様が対立するからではない。

神様が死んでしまったので、まともに機能しなくなったのだ。


おそらく神という概念は、理性を導くアーキタイプのようなものなのだろうという予感がある。

それは、論理的に突き詰めていけば単なる誤謬推論になってしまう。

しかしそれでもなお、神という概念は、理性を導く理念として必要なのだ。

数学的な無限大♾️は、数的規則の中では明らかに浮いた存在だが、しかしその概念は数学における様々な有用な発見を導いた。

神様もこれと同様に、人が理性を見出すための「装置」として有用であるに違いない。

だから、我々は過去の哲学的議論を踏み越えて先に進まなければならない。神は死んでもなお必要であり、その有用性を取り戻さなければいけないのだ。


まずは、「神」という多義的な概念を解体して吟味する所から始めてみよう。