「自然」を人為に対する対立概念として定立しようとする試みは、人間とその営みも自然の被造物であって、そこに線引きすることができないという点において破綻した。
では次は「所与の条件としての自然」を検討してみる。
人間も自然の被造物であり、その営みも自然の一部である。
この考え方の行き着く先にあるのは、自然とはつまり宇宙そのものであり、事実の総体としての世界そのものであるとする自然観である。
自然とは、この世界がこのようであるためのフォーマットであり、そこから外れることはできない。
人類はこのフォーマットに乗っかって生きており、フォーマットそのものに対して何かできるわけではない。
例え人類が地球を滅ぼしたとしても、それも自然の営みである。
実際、この宇宙には人類以外の宇宙人の住む星がたくさんあるかも知れないし、そのうち幾つかは宇宙人さんの文明の失敗で滅んだりしているのかも知れない。
しかし、この世界にあるものは、それが何であろうといずれは滅び去るのだ。
数百億年の時間の中では、人類の栄枯盛衰なんて一瞬の線香花火である。
思えばこの地球上に光合成する藻類が現れた時だって、大気組成が大幅に変わり、嫌気性微生物が大量絶滅したのだ。これに比べたら、人類による環境破壊なんて可愛いものだ。
ならば、そもそも自然保護なんてナンセンスなのではないか?
「自然」が単にこの宇宙であり、世界そのものなのだとしたら、自然という概念自体が解消する。我々はこの世界に対して何かできるわけではないし、保護って一体何を護るのだ。
我々にできることは、ただ成り行きを見守ることだけなのではないか?
…とここまで突き進んできたら分かるのだが、これはどうも話のスケールを時間的にも空間的にも大きく取り過ぎている。
我々は宇宙的なスケールの生き方を確立したいのではない。
目先の自然をどのように護るかが問題なのだ。
自然科学をベースにした議論をする場合は、スケール感を間違わないことが大切である。
例えば、以前の宇宙人の論考では、生物の自然発生が不可能であるとする「箱の中のシャカシャカ論法」の誤謬を指摘した。
生物の起源は生物学のスケールで論じるべきだ。熱力学のスケールで論じてはいけない。
自然保護を考える場合に我々が想定しているのは、どうしようもなく巨大な宇宙的ナニモノカではない。
我々の「自然」は、我々の目の前にあって、我々の視界に捉えられるスケール感のものである。
ここでまた、前節と同様の問題が発覚する。
つまり、抽象概念として一般化された「自然」について考え始めると、自然保護なんてできないのだ。
我々が経験的に知っている「自然」
我々が感覚的に把握できる「自然」
我々の身近な実感の中にある「自然」
これをそのまま掬い取ることで、我々の手で護るべきもの、我々の力で保護できるものが何であるのかが明らかとなるのだろう。
遥か彼方の宇宙を統べる銀河連合さんが、地球人による自然破壊を問題視して人類を滅ぼそうとしているとか、
環境問題や疫病のパンデミックは人類に対する地球の復讐であるとか、
そういうスケール感の話をしたところで、目先の問題解決には何ら寄与しない。
自然保護とは我々の感性で把握できる対象との付き合い方の問題なのだろう。