「自然」って何だろう。

我が愛すべき人類は、一体何を保護しようとしているのだろう?


「自然」という言葉は大変多義的である。

そのニュアンスは文脈によって微妙に異なるので、自然を定義するにはまず文脈を定めるところからだ。

そこで、まずは細かい話を後回しにして、議論のスキームを検証する所から始めてみよう。


現代の自然保護は多くの場合、まず「自然」を定義した上で、その保護の在り方を考えているわけではない。

守るべきものを先に決めておいて、それに合うものを保護対象の「自然」と見做している。そこにおける「自然」の定義はアヤフヤだ。


例えば、生物多様性を保全しなけらばならないのは、将来何かの役に立つかも知れない多様な遺伝資源を失わないため。

森やジャングルを野放図に切り開いてはいけないのは、そこで大人しくしていた野生獣や潜んでいた未知の病原体を人間社会に解き放ってしまうかも知れないし、光合成が低下して温暖化が進展するから。

ヨーロッパなんかでは、企業の広大な敷地に樹を植えて森にすることで夏のエアコン代を減らせるので、結果的に元を取れるというような優良事例が紹介されている。


ここで守ろうとしているのは我々の生活や人類の発展であり、「自然」はそのためのアイテムの一つに過ぎない。

自然保護という手間と犠牲を要するコトをやるためには、その対価を示した方がモチベーションが上がるということなのだろう。


しかし、このような功利的な動機に導かれた「経済的自然保護」は、様々な利害対立の原因ともなる。

損得勘定の自然保護は、それで得する者にとっては有意義だが、得しない者にとっては面倒でしかない。

例えば、アマゾンの生物多様性に支えられた膨大な遺伝資源は、新たな医薬品の原材料の宝庫なのかも知れない。

しかし、その医薬品開発のメリットを享受するのは主に先進国だ。ブラジル政府はアマゾン保護のコストばかり負担させられるだけで何のメリットもない。

そのため、ABS(遺伝資源の取得の機会とその利用から生ずる利益の公平かつ衝平な配分)なんて取り決めもある。

このような自然保護は、もはやモラル的命題ではなく、単なる人間同士の契約である。

肝心な「自然」を置き去りにしたまま、利益を求める人間同士が空中戦をしているのだ。


そうではなくて、先に「自然」を定義した後に、その保護の有り様を考えるスタイルも古くからある。

例えば有機農業なんてのがそうだ。


日本の有機農産物の基準を定めたJAS有機規格では、合成化学物質や遺伝組み換え体を使ってはいけないことになっている。

人間が合成した自然界にない物質は、それ自体が環境に対する負荷であるとみなし、天然物のみを許容しましょうというワケだ。

自然のもの=天然物という素朴で分かりやすい考え方である。しかし問題もある。


JAS有機では、畝を覆うためのビニールマルチの使用は許容されるが、自然に分解して土に帰る生分解性マルチは使用できない。

ビニールマルチは栽培が終わったら引っ剥がして回収できるので、環境に対する負荷にはならない。

しかし生分解性マルチは分解して土に混じってしまうので、化学合成された物質を土に混ぜ込むコトになる。だからマズイとされるのだ。

環境を守るために、ビニールなどを含むプラスチック製品の利用を極力減らしましょうと言っている今の時代に、分解しないビニールマルチは良くて生分解するマルチはダメって、その有機農業は何なのだ。(-。-;

もはや何を保護しようとしているのか分からなくてなってしまっている。


ここで守ろうとしているのは自然そのものではなく、JAS有機のルールである。

その向こうに透けて見えるのは、「合成化学物質によって負荷を受けるもの」と定義された概念としての「自然」である。

先に「自然」を定義してしまうと融通が利かなくなる。

その定義の不完全性ゆえに、「定義された自然」と「実態としての自然」が解離してしまい、こういう本末転倒なコトも起こるのである。


これらの立場を異にする2つのスキームに共通する問題点は、つまり「自然」とは何なのかという点の考察が浅いことに由来する。

損得勘定の保護活動に合致するものを自然

と見做したり、天然物と合成物で線引きされた素朴すぎる見方が問題なのだ。


では改めて、「自然」とは何なのかを考えてみよう。