自己意識とは「私」の感覚である。

私が何かを感じたり考えたりしている時、

それを、他人事の映像を見せられているのではなく、私自身のコトとして体験する、

この主体性の感覚が自己意識である。

ここを少し掘り下げてみよう。


人間に似たアンドロイドを一体作ったとしよう。

このアンドロイドは、周囲が暑くなって体温が上がってくると、服を一枚脱ぐように設計されている。

これはつまり、自分自身の身体に起こった変化を察知し、それに応じた判断をすることができるということだ。

では、このアンドロイドは自らの身体の状態を自ら体験して、自分にしか知り得ない自分自身の状況に応じた判断を主体的に行なっているのだろうか?


彼が主観的体験を持つかどうかは、どうしたって我々には分からない。

しかし、その判断は自分にしか分からない自分自身の状態変化を踏まえた判断なのだから、他人が介入する余地はない。これは主体的判断なのだろうか?


いや、そんな単純な話ではない。

例えば我々は、暑くても服を一枚脱がないという判断をすることがある。

その動機は様々あろう。

一枚脱いだら下着になってしまうので恥ずかしいとか。

腹を丸出しにしたらお腹を壊すとか。

バシっと決めたファッションを放棄したくないとか。

我慢大会してるからというのもあるかも知れない。

いずれにせよ、「暑いから服を一枚脱ぐ」というような機械的判断をしているわけではない。


しかしそれは、単に判断基準の複雑さの問題に過ぎないという意見もあろう。

単に体温が上がったからというだけではなく、その他の様々な状況をも勘案した総合的判断をしているだけであって、アンドロイドの判断と本質的に異なるものではないと。


しかし困ったことに、それだけではないのだ。

我々は時に天邪鬼な気持ちで服を脱がなかったりすることがあり得る。

例えば、どんどん気温が上昇していく部屋の中で、脳科学者なんかから「脳波を測定したら、お前はもう間も無く服を脱ぐコトが判明した」などと言われたら、それにちょっと逆らってみたくなるのが人間というものではないだろうか?


何を言いたいのかと言うと、外から与えられた状況から定型的に導かれる反応は、主体的判断ではないのだ。

主体的判断というものは、外から与えられた状況に素直に従うこともできるし、反発して逆張りすることもできる。

つまり、その判断は、外から与えられた状況が何であろうと、その状況とは独立して成されているということだ。

暑いから服を脱ぐ、これを主体的判断として行うのは良い。

しかし、その判断は主体による自己決定であり、暑さが原因となって服を脱ぐという行動が自動的に導かれるわけではない。

だからこそ、主体は外部から切り離された独立性を持ち得るのだ。

「私」の感覚とはそういうものだろう。


このような独立した判断を行う自己意識を、アンドロイドにプログラミングできるものだろうか?


暑くなったら服を脱ぐようにプログラミングするのは簡単だろう。

そこに、周囲に人目があれば、恥ずかしがって脱ぐのを止めるプログラムを付加するのも簡単だろう。

しかしいくら条件付けを増やしてプログラムを複雑にしても、それは外部から与えられた条件に対する機械的な自動処理だ。

外部の状況とは無関係な判断を恣意的に選択できてこそ自己意識であると言える。


では、選択をランダムに選べるようにプログラミングしたらどうだろう?

暑さ寒さとは全く無関係に服を脱いだり脱がなかったりするプログラミングはどうだろう?

これはこれで、また何か違うという気がする。

我々は、普通は暑くなったら服を脱ぐのだ。

それは暑さが原因となって自動的かつ必然的に導かれる結果ではない。

暑さを動機として選択的に導かれる結果である。

ここにおいて、「原因」と「動機」の違いが明らかになる。

原因-結果系の因果関係はアルゴリズムで表現できるしプログラミング可能だ。

しかし、動機-結果系は主体の判断であって、外部から与えることはできない。

このことは、自己意識というものが、パソコンのようなハード(身体)とソフト(心)の二元論モデルでは説明できないことを意味する。

自己意識は肉体に宿るプログラムではないのだ。