夢分析は、夢占いではない。


夢占いというのは、例えば「歯が抜ける夢を見たら、大きな変革が近づいている」的なアレである。

「歯が抜けたら大きな変革」

「蛇は抑圧された性欲」

「光に包まれたら神様の加護」

という風に、夢の中に登場する様々なモチーフに、それぞれ特定の意味を授けて、「夢の言葉」を翻訳する。

これは、夢の内容を、言語のような記号として捉えるやり方だ。もちろん、当たり外れはいい加減である。(笑)


こういうアプローチを最初に始めたのは、無意識の発見者とされるジクムント・フロイトである。

フロイトは、最も有名な著作である『夢診断』において、このような「夢言語」の辞典を提示した。

それはしかし、夢の内容を客観的対象として捉えるやり方である。

実際の事例に即して検証可能であるという点では科学的だが、しかし人それぞれの主観的体験である夢を客観的な対象とみなす捉え方は、結局は前節のようなスピリ妄想に行き着いてしまう。

なぜなら、純粋な主観的体験の内容には、客観的根拠なんて見つけようがないからだ。

「夢に犬が出てきたら、翌朝に電柱に頭をぶつけてしまった。これには何か意味があるのでしょうか?」

などと問うてみたところで、そこに因果関係を見出すのは無理がありすぎる。

検証するまでもなく失敗するのが目に見えている。(-。-;


ユング派の臨床では、このようなアプローチをとらない。

患者の夢に耳を傾け、しかし「その夢はこういう意味だから、ああしなさい、こうしなさい」という風に夢を翻訳したり診断したり、占い師のようなことはしない。

その夢の中の体験をどのように感じたのか、どんな印象を持ち、どんな感情を感じ、どんな連想をしたのか、とことん聞き役に回って患者が自ら何かに気付くのを待つのだ。

これは、夢のモチーフではなく、夢のシチュエーションに注目する方法だとワタシは取り敢えず捉えている。


この方法は、よくよく考えると、実は大変理に適っている。

例えば、ワタシは大きな仕事の締め切りが近づいてきて焦っている時なんかに、今でも大学の試験に遅刻しそうなのに電車が到着せずに焦る夢を時折見る。(-。-;

この時、夢の中に出てくる電車とか、試験の科目とか、駅のプラットホームなんかは、単に過去の記憶から摘んできたモチーフの変形である。

しかし、そこで焦る気持ちは、正しく今現実に体験している仕事の話だ。(・_・;

そこで意味があるのは、電車がクハ103系なのか、N700系なのかというようなモチーフの種類ではない。

夢の中で体験するシチュエーションから喚起された「焦り」の感情体験こそが、正しく私自身の内的現実を現しているのだ。


精神を病んでしまう人は、自分自身の心の現実と真っ直ぐ向き合うことができない場合が多い。

本当は嫌なのに逆らえないとか、本当はこうしたいのにそれが出来ないとか、

そういう時に自分を誤魔化し、欲求から目を背け、そんな抑圧が溜まり溜まった挙げ句、心の現実と外の現実に折り合いを付けられなくなって、人は病んでしまうのだ。

そんな時、日頃自分の心を強固に縛っている意識が緩む睡眠中に、抑圧されて無意識に押し込められた本音が夢に現れる。

その夢のシチュエーションをじっくり味わい、そこに気づかなかった本音を見つけることで、心の病の寛解に繋がるのだろう。


夢の中の風景は、どこかおかしかったり、現実離れしていたりするものだが、それは当たり前だ。

意識の力が緩んでいるのだから、そこで思い浮かべる世界がヘンテコになってしまうのは当然である。

そのヘンテコなモチーフに気を取られていると、肝心の「私の心」の現実は見過ごされてしまう。

主観的体験とは、常に何らかの印象や感情を伴う質感であり、そこではモチーフよりもシチュエーションが、或いは目に映る対象の種類よりもそこから自身が感じる印象・感情が重要な意味を持つのだろう。


と、ここまでは、普通の夢の一般論である。

ユングの本当の面白さはここからさらに先にあるのだ。(笑)