「因果関係とはつまり迷信である」
ヴィトゲンシュタインの一節である。
これについては、以前も別の論考で論じたが、改めて確認してみよう。
まずは、この2つの命題を比べてみる。
①トイレでオシッコをしたら、ジョボジョボと音がした
②ミミズにオシッコをかけたら、チ〇チ〇が腫れた
この2つの命題は、いずれも因果関係を説明する命題である。
そして、①はおそらく因果関係を正しく説明している命題であり、真である。
これに対して、②は迷信であり偽の命題である。
この2つの命題は、論理形式としては同じである。
いずれも「オシッコをした」とそれに続く「ジョボジョボと音がした」あるいは「〇ン〇ンが腫れた」を時系列順に並べただけである。
そしてこれらの命題には、これが真の因果関係なのか迷信なのかを判断するための手掛かりは含まれていない。
論理学は形式のみに関わり、命題の真偽には関わらない。真偽を判定するのは科学の仕事である。
これがヴィトゲンシュタインの立ち位置である。
さて、この2つの命題において、その真偽を論理的に区別できないのはなぜだろうか?
よくよく見ると分かるのだが、これらの命題は、ただ2つの出来事を時系列順に並べているだけで、その2つの出来事の間の関係性には触れていない。
何かが起こった後に、別の何かが起こったと言っているだけなのだ。
ここにあるのは、歴史年表的な時間概念である。
歴史年表は、それぞれの時代に起こった個別の出来事を時系列順に並べているだけである。
これに対して、我々は物事の因果関係を、普段はどのように認識しているだろうか?
我々は、現在という時点において、常に流れ続ける時間経過を体験している。
この中では、様々な事象が時間経過とともに連続的に変化し、それらは一連の出来事として体験される。
「オシッコをした」と「ジョボジョボと音がした」は、時間経過の中で繋がった一連の出来事である。だからこそ、我々はそれが真の因果関係で繋がっていることを疑わない。
しかしそれらを言葉で説明するために、切り離して別々の出来事として説明すると、単に時系列順に並べただけの説明となってしまう。
そして、その間の連続性が失われ、因果関係は霧消してしまう。
この感覚が分かるだろうか?
前節までの説明のように、我々は「時間」という言葉を2つの異なるニュアンスで用いている。
一つは歴史年表的時間である。
これは時系列順に出来事が配置した、いわば「固定された」時間である。
そして我々の現在は、この歴史年表上を過去から未来へ移動し続けている。
この時間概念においては、過去、現在、未来は、単に年表上の特定の位置を示すものであり、そこを「旅する」我々がなぜ今ここにいるのか、なぜ我々は過去から未来へと一方向の移動しかしないのかが疑問となる。
また、出来事は単に時系列順に並んでいるだけなので、真の因果関係と迷信の区別がつけられない。
もう一つの時間概念は、我々が普段体験している時間経過である。
これは、常に流れ続ける純粋持続であり、唯一の現在に対して、未来から訪れ過去に押し流されていく時間観念である。
この時間概念においては、時間の流れは所与の条件であり、「なぜ今この時なのか?」と問うことはナンセンスである。
過去、現在、未来があって、その上で我々はたまたま現在にいるのではない。
いま、我々がいるここを現在と称しているのだ。
そして、因果関係の真偽も、このような「流れる時間経過」の中での連続性の有無として判断される。
ドラえもん的タイムマシンは、言うまでもなく歴史年表的な時間概念の上に成立するするものだ。
もし時間が歴史年表であるなら、特定の時点を「現在」と称して特別扱いする意味はない。
あらゆる時点は等価であり、その時点における現在である。
そしてのび太君とドラえもんは、恐竜時代における「現在」を生きることができるのだ。
物理学の時間概念もまた歴史年表的である。
例えば、投げたボールは空中にアーチ型の軌跡を描き出す。
このアーチを、微分法で個々の時点におけるボールの位置の積算とすることで、ボールの運動方程式が導出される。
これは、個々の時点におけるボールの位置を、時系列順に並べた歴史年表的アプローチである。
しかし、ボールは一本のアーチではない。
ボールは小さな丸い物体であり、それが時間経過の中で位置を変化させているのだ。
そういう意味で、物理学は時間の実態を正しく記述できていない。
以上のように、時間を歴史年表に置き換えて考える物理学の延長に、ドラえもん的タイムマシンが夢想されるのは当たり前の話である。
しかしその時間概念は、現在において我々が経験している時間経過とは異なる概念であり、そこに現代物理学の限界がある。
そして、ドラえもん的タイムマシンは、因果関係の混乱によるタイムパラドックスという壁によって否定されてしまうのだ。