過去や未来を自在に行き来するタイムマシンにおいては、タイムパラドックスは漏れなく付いてくる難問である。

タイムマシンは過去や未来に干渉する乗り物なので、常に何らかのタイムパラドックスは起こる。

そしてそのタイムパラドックスを許容するということは、過去の世界や未来の世界が異なる歴史を持つ別世界になってしまうということである。そしてタイムマシンはもはや時間移動ではなく、単なる別世界への移動手段となってしまう。


ここで改めて考えるべきことがある。

一つは、時間とは何かということである。

もう一つは、因果関係とは何かということである。


さて、まずは我々が時間について知り得る事実関係を確認してみよう。

いま、我々は現在を経験している。

現在は、常に流れ続ける時間経過の中にある。

この時間経過というコトが、過去と未来の概念を生み出す。

我々が知る過去は、過ぎ去った時間の記憶である。

我々は未来を知り得ない。これから未来が何らかの形で訪れるであろうと予想するのみである。

このように、我々が知れ得る事実のみに基づいて考えると、実在するのは変化し続ける現在のみであり、過去も未来も実在はしないということになる。


もし過去が、現在と並列する形でどこか別の所に実在するのだとしたら、その過去の世界においても現在と同じような時間経過の感覚があるはずである。

過去の世界に時間経過がなく、凍りついた静止画のように存在するのだとしたら、それは世界とは言えないだろう。

我々は時間経過のない世界を認識することはできない。

例えば、我々が静止画を見ることができるのは、時間経過とともに光がこの目に届き、電気信号が神経系を通り、脳で情報処理されるからだ。これら一連の経緯は時間経過があることによって起こり、時間経過がなければ認識は成立しない。

いや、認識だけではない。

この世界を構成するあらゆる出来事は、時間経過のフォーマットにおいて生起する。

時間経過がなければ世界は成立しないのだ。

よって、静止画の世界というのはあり得ないのである。


このように考えると、現在の世界とは別に過去の世界があるのなら、そこにはそれぞれの時間経過があるということが理解されよう。

そしてこれら異なる時点世界における時間経過としての時間軸は、過去の世界と現在の世界を繋ぐ時間軸とは別のものであることが予感される。

過去〜現在〜未来として把握される時間軸は、歴史年表的に固定された時間軸である。

これに対して、それぞれの時点世界において体験される時間経過としての時間軸は、持続的に流れ続ける時間軸である。


歴史年表的な時間軸は、個々の時点世界が並ぶことによって成立する。

そこにおける個々の時点世界は実在し得ない静止画の世界であり、ズラっと並んだパラパラマンガのような静止画の世界の中を、我々は未来に向かって移動することになる。

しかしその静止画世界が存在し得ない以上、それは実在しない仮想上の時間軸であろう。

もし時間軸が、過去の世界と現在の世界を繋ぐ歴史年表であるのなら、なぜ時間が流れているのかが分からない。

それは静止した一本の棒としての歴史年表であってもいいではないか。なぜ我々はこの歴史年表の上を未来に向かって移動し続けているのか?

また、なぜ我々は10分前でも100年前でもなく、他ならぬ今この時点にいるのか?

どの時点にいたっていいではないか。

このように、時間というものが、個々の時点世界が歴史年表的に並ぶことで成立すると仮定してしまうと、あらゆることに必然性がなくなるのだ。


時間というものは、常に経過し流れ続けるものだ。

そしてここにおいて言えることは、その流れは常に「現在」という時点において体験されているし、その流れを体験する時点を我々は「現在」と呼んでいるのだ。

タイムパラドックスは、時間軸を歴史年表的なものと勘違いし、2種類の異なる時間概念をごちゃ混ぜにするから生じる問題なのだろう。

特殊相対性理論の方程式も、方眼紙の上に描かれた「流れない」時間軸と「凍りついた」世界線の関数である。

そういう意味で、特殊相対性理論は静的モデルであり、時間の理論としては不完全である。


マンガの世界では、時間を止めることのできる特殊能力者が現れて、凍りついた世界の中であんなコトやこんなコトをする。それは大抵は悪さである。(笑)

しかし、もし世界の時間経過が停止してしまったら、世界は暗黒に包まれる。

そしてその能力者は、外界から酸素を取り込むことができず、それどころか停止して凍りついた空気のなかで身動き一つできず、悶え死ぬことになるだろう。(-。-;

再び時間が動き出したその時、ジョジョは勝手に自爆したディオ様の死体を眺めながら、一体何が起こったのか延々と悩み続けるコトになるのだ。(・_・;