さて、また間が空いた。
どこまでいったっけ。(笑)
そう、判断の作法だ。
人の判断は、その根拠を遡っていけば、最後は直観である。
大きいものを大きいと判断する。
多いものを多いと判断する。
こういった判断はアプリオリな感覚であり、それ以上の根拠を遡ることはできない。
野球のボールとバスケットボールを並べて「なぜバスケットボールの方が大きいと言えるのか?」と尋ねられたら、
「見ての通り、バスケットボールの方が大きいじゃないか」としか言いようがない。
この感覚を共有できている限り、我々は「バスケットボールの方が大きい」という判断を共有できる。
こういった、実物に則した判断であれば、同じ感覚器官を共有する者同士で同意することができるし、それは全ての者が確認可能な客観的判断となる。これが事実に基づく判断というヤツだ。
しかし、これが論理的判断になるとどうだろう?
陰謀論のように、事実関係を確認できない情報の真偽性の判断は、ひとえにその説明の説明力と説得力に委ねられる。
そして、どのような説明に説得力を感じるのかは、その人の思考回路に依存する。
思考回路というやつが厄介であることは、例えば精神病理を齧ったことのある人なら誰でも知っている。
面倒くさいので細かい説明は省略するが、我々は情報が「信じられる」とか「説得力がある」とかお気軽に判断する前に、そのように判断している自分の思考回路が真っ当であるのかをまず疑わないといけないのだ。
中世の時代に魔女狩りに熱狂した人たちにとっては、黒猫を飼っている人=人々に危害を及ぼす魔女であることは、それ以上の根拠を遡る必要のないアプリオリな事実だったのだろう。
宇宙人を信仰する人にとっては、火星の人面石は「むかし地球に来た火星人が作ったものとしか考えられない」のだろう。
スピリチュアル好きの恋する乙女にとっては、頻繁に電車で乗り合わせる彼はツインソウルと考えるのが「一番しっくりくる」のだろう。
学校に行きたくないユーチューバーの息子を持つ心理カウンセラーにとっては、学校の大切さを説く者は他人を否定するしか能のない馬鹿で哀れな負け犬アンチなのだろう。(笑)
頭の中にそういう論理回路が出来上がってしまうと、それは疑うべくもないアプリオリな事実と感じられる。
5+7は、いちいち指を折って数えなくても12で正解なのだ。これと同様の思考回路のバイパスが貫通してしまうと、そこに内在する論理飛躍が改めて検討されることは普通はない。
人間は、一度考えて構築した思考回路を改めて疑うことはあまりしない。
だから、陰謀論者はなんでも陰謀として解釈する傾向がある。その思考回路が「しっくりくる」のだ。
1人の人間が一生の間に経験できることなんて、たかが知れている。それはこの世界のごくごく一部に過ぎない。
だから我々は経験の不足を様々な情報で補うのだが、その情報そのものの真偽性が問題となる場面では、自分の持つ経験の薄さが図らずも露呈する。
学校に行かない子供にとっては、学校は「行かなくてもいい場所」と感じられるだろうし、ネット上にあるそのような意見ばかりが「しっくり」くる。反対意見は言葉だけの嘘八百と感じられるだろう。
人は生得的な経験主義者であり、経験の引き出しにないことは理解できない。
統計学を学んだことがなければ、占いには統計学的根拠があると思ってしまう。それが彼の経験の中にある「統計学」なのだ。
そして困ったことに、そんな自分を疑ってみたところで、正解は自分の中にはないのだ。
統計学を学んでない人が、そんな自分を疑ってみたところで、頭の引き出しの中に「正しい統計学」が入っていなければ、その疑いに決着を付ける術はない。
ではどうしたらいいのか?