植物も、我々と同じような内的体験を持つのだろうか?

この問いは「植物は認識主体として何かを体験しているのか?」と言い換えると分かりやすいかも知れない。


まず最初に確認しておくべきこととして、植物には動物のような脳神経系がない。

だから、植物が何かを体験するとしても、それは我々の体験とは全く異質のものと想像される。

我々が考えたり感じたりする時のあの体験とは全く異なるということだ。


植物に光を当てると光合成を行う。

根が伸びた先に大きな石があれば、それを避けて根を伸ばす。

水をやるとシャンとする。


このように、植物に対して外部から何らかの刺激を与えると、まず刺激を受け取った植物体内では、その刺激に対する化学反応プロセスが起こる。

それによって植物の内的状態が変化し、結果として光合成反応が起こったり、根を伸ばす向きを変えたり、シャンとしたりするワケだ。

こういった刺激-反応系は、原初的な「認識」と言えるかも知れない。

植物は刺激を受とり、それを体内の化学反応プロセスとして認識し、反応したのだ。その反応は思いの外柔軟である。

その時植物体内で起こっている化学反応プロセスの変化を、彼らは内的な質感として体験しているのだろうか?


この場合、「植物」を主語にすれば、その変化は彼らの体験として記述される。言葉の上だけでは。

一方、その植物を客体として観察している我々には、「植物の心」は分からないし分かりようもない。

ただ、その心は我々が体験的に知っている心とは全く異質であると推測できるのみである。あったとしての話だが。

このアプローチは不毛である。

分からないことを分からないことで説明しても仕方がない。(-。-;


心を「刺激-反応系」として捉えるのは、古い行動主義心理学の方法論である。

そこにおける心は、外部から与えた刺激と、外部から観察される反応によって記述されるが、肝心の「心」は見えないブラックボックスのままだ。

それは脳科学へと発展的に解消した今も変わらない。

少し切り口を変えてみよう。

久しぶりに深い森の中に迷い込んでしまった。(笑)