「リベットの実験」と呼ばれる有名な論文がある。
人間が何かを判断して行動に移す時、その判断を人が意識するよりも早く、脳内ではすでに無意識的に(?)判断結果が決定されているという内容である。
自由意思は幻想であり、人は脳内化学反応の操り人形にすぎないというものだ。
実際にはツッコミどころの多い実験である。
しかも後年、リベット自身がこの実験を覆す別のデータを取り、自由意思による判断を肯定しているというオチもついている。(笑)
さて、ツッコミどころを解説すると長くなるので、これは置いておこう。
それ以前に、このスキーム自体が、実は深刻な自己矛盾を抱えているのだ。
「人間の判断というものは、それを意識する前に予め決定されている。」
判断が予め脳内プロセスで決定されているのなら、理論的には、我々はその判断を予め知ることができるはずである。
昼ごはんを食べようと思ったら、ラーメン屋さんとうどん屋さんがあった。
今日はラーメンの気分だと思ったのでラーメンにした。
しかしその判断は、実は私の脳の中で予め決定されている。
それならば、我々は脳内を測定してその判断を先に知ることで、脳の勝手な判断に逆らって、やっぱりうどんにすることもできるはずだ。
もちろん、私の脳内には「天邪鬼回路」が組み込まれており、ラーメンであることを予め知った場合には逆張りしてうどんを選ぶよう、脳に仕組まれているのかも知れない。
しかしそれなら、私はその天邪鬼回路の判断を予め知ることで、やっぱりラーメンを選ぶこともできる。
それすら予め決定されている?
ならばそれを予め知ることで、やっぱりうどんを…。つまりこれは無限論法である。
予め決定された判断結果を、判断中枢にフィードバックすることで逆張りさせる天邪鬼回路。
これを組み込まれた鉄腕アトムは、起動させたその瞬間にフリーズするだろう。(-。-;
彼は最初の一歩を右足から踏み出すべきか左足から踏み出すべきかを永遠に決定できない。
「右足か?いや左足だ。いややっぱり右足た…」
こんなジレンマのフィードバックループを永遠に計算し続けるしかないのだ。(;ω;)
なぜこんな現実離れした可笑しな話になってしまうのだろう?
それは、判断する主体を二重設定しているからである。
つまり、「予め勝手に判断する脳」と、「意識的に判断する認識主体としての私」を別々の判断主体として設定している。
勝手に私を動かそうとする脳と、それに逆らいたい私に主導権を奪い合いさせるから、何も決定できずにフリーズしてしまうのだ。
これは言い換えると、脳と心の二元論である。
「私の意識が判断するよりも先に、その判断は脳によって決定されている」
「私は脳内プロセスの操り人形である」
ここには「操る脳」と「操られる私」の2つの登場人物がいるのだ。
そして、本来ならば操られる側には主体性が無いはずである。主体性を持つのは操る側だ。
しかし、心脳二元論のスキームでは、主体であるはずの「私」が操られ、客観的対象である「脳」が主導権を握っている。
つまり、天邪鬼回路のパラドックスが生じる理由は、その暗黙の前提に無理があるからなのだ。
心と脳を別のものと捉え、それぞれに可笑しな性質を付与するから、こんなヘンテコな話になってしまうのである。(-。-;
心は脳という別の何かに操られているのではない。心と身体は一体であり、同じ一つの出来事の裏表に過ぎない。
心とは脳の体験である。脳内プロセスが何かを決定するということは、心がそれを決めているということである。
しかし、心とは主観的体験なので、そこで起こっていることを、他人が客観的に観察することはできない。
そこで脳科学者がやっているように、脳内プロセスを観察して心を推測しようとしたら、そこに機械的に進行する化学反応プロセスが見つかるのは当たり前ではないか。
「心とは脳内の物理的プロセスだ」という前提でその物理的プロセスを観察して、「ほら、心は機械的な物理的プロセスじゃないか」と言うのは、単なる同義反復のヤラセである。(-。-;
脳科学や認知科学は、あくまでも客観的に観察される物理現象を見ているだけで、「心」を見ているわけではない。
リベットの実験だって、心を直接観察して「心より早く脳が決めている」ことを見つけたわけではないのだ。
では、自由意思はあるのだろうか?
そもそも「判断主体」であるということ自体に、主体的な意思決定、すなわち自由意思の存在が内包されている。
それが脳であろうと心であろうと、何かが「判断する」ということは、それがその主体の自由意思なのだ。
例えば、AIがプログラムに従って機械的に判断している場合、それは「判断している」のではなく、「判断させられている」のだ。
そしてそこにおける判断主体はAIではなく、プログラマーであろう。
「このような条件下ではこのように判断する」ということをプログラマーが予め決定している。
後はその場面の初期状態さえ判明すれば、AIがどのように判断するかは予め予測できる。
これと同様に、真の判断主体は人類を設計した神様・宇宙人様であり、人類はカルマの法則に支配される操り人形にすぎないとか言う人もいるだろう。古いオカルトだ。(笑)
心の主体性を否定しようとしても、どこかに「私」になり変わって自ら判断をしてくれる主体を設定せざるを得ない。
自由意思を持った主体は「私」なのか?
それとも「私を操る脳内プロセス」なのか?
それとも「私」を設計した神様・宇宙人様なのか?
普通に考えて、ここで神様・宇宙人様を持ち出して説明を複雑にすべき必然性はない。(笑)
「心が判断する」と言う時、その主体は絶対的な主体性の在処である一人称の「私」である。
それを「私の脳」と言い変えても同じことだ。
「私」の判断は、「私」が主体的に決定している。
その「私」は、私自身には心として体験され、他人には脳プロセスとして観察される。それだけのことだ。
この分かりやすい現実感覚から外れて、心と脳を分裂させたり、何の必然性もない設計者様を付け加えたりして、説明を複雑にすべき理由があるだろうか?
まとめてみよう。
「私」という主体(心)の外部に設定した、もう一つの別の主体(脳プロセス)に「私」が操られるという発想は、判断主体の二重性という可笑しな設定ゆえにパラドックスに陥ってしまう。
そのパラドックスゆえに、「操られる私」という命題は可能態としてさえ成立しないのだ。
判断する主体は「私」である。
それは、主観的体験を通じて唯一確認可能な主体であり、その主体性から逃れることはできない。
そしてその「私」は、主体であるが故に自由意思を内包せざるを得ないのだ。