さて、ここまで超心理学をボロカスにこき下ろした。(笑)
ツッコミどころはまだまだ沢山あるが、要は前提と方法論が根本的におかしいということだ。
確率統計で未知の存在を証明することはできない。
物理的プロセスで精神を証明することもできない。
まあ、文句を言うのはこんなモンにしておこう。(笑)
これだけで終わってしまったら、それはただ古いオカルトに文句を付けただけのアンチテーゼに過ぎない。
ネオ・オカルティズムを標榜するのなら、そこから先に進んで具体的な議論を提示しなければいけない。(´・ω・`)
ワタシ自身は「精神の力」が馬鹿馬鹿しいとは露ほども思っていない。
人間は、自分の意思で手足を動かす。
自然法則に従ったプロセスでは生み出せないような複雑なモノを組み立てたりする。
その「精神」は物理的な力として直接作用しているわけではないが、確かに我々は「精神」を原因としてこの世界の一部を変化させているのだ。多分。(笑)
この誰もが体験している、当たり前の心の現実をガン無視して、
「精神がスプーンを曲げる」とか、
「精神が乱数発生器に干渉する」とか、
反証不可能なオカルト解釈ばかり追いかけ回しても不毛である。(-。-;
「心」とか「精神」とかいうのは、認識する主体が我が事として体験している質感である。
他人の心や他人の精神を客観的に確認することはできない。
この前提を踏み外して、客観的に観測される現象の中に「心」や「精神」を見出そうとしても、そこに我々が見出すのは物的な脳神経プロセスでしかない。(・_・;
我々が「心・精神」と思っているものを客観的に観察したら、それは脳内プロセスとして記述されてしまう。
「悲しい時には脳内にそういう反応が起きている」とかいう話にしかならない。
では、心は脳内の物的プロセスの体験に過ぎず、我々は機械的に進行する化学反応に踊らされているだけなのだろうか?
これは自由意思の問題を孕んでいる。
以前「自由意思」の論考の中で、自由であるということと、規則や法則に従うかどうかということは無関係であると論じた。
社会の規則は時に不自由なものだが、しかし我々が自ら規則を考案し、あるいはそれに自ら進んで従うのであれば、それは自由意思による判断である。
また、我々は重力の法則に逆らって、生身で空を飛ぶことはできない。自然法則は絶対的で逆らえない規定である。
しかし、重力の法則を理解し、これを逆に利用した飛行機で空を飛ぶことができる。
空を飛ぶというのは、進化の法則が何十億年もかけて実現したことである。
しかし人間は、自分で考えて飛行機を組み立て、数百年で一気に実現した。
賢く進化したからだと言われたらその通りだが、人間は自ら飛びたいという意志を持って、自然法則を利用して出し抜き、その規定を事実上無効化して、飛行機を実現したのだ。
こういった「人類の精神活動の成果」は、我々の精神が脳内化学反応の法則に機械的に従った結果として必然的に起こったことなのだろうか?
箱の中に積み木を入れて何万回シャカシャカしても、積み木が勝手に組み上がることはまずない。
しかし我々は、自分で考えて積み木を一瞬で組み立てることができる。
このような「あり得ない秩序」も、脳内化学反応の法則の必然的結果としての、単なる自然現象なのだろうか?
これは逆に言うと、我々がもし自由意思を持つのなら、それは我々の精神の働きが、自然法則の因果関係から機械的に導出される結果とは異なる結果を導けることを意味する。
それを心の外の出来事に見出そうとしたのが超心理学の失敗である。
スプーンを曲げても、乱数発生器を誤作動させても、そんなものは物理的プロセスに過ぎないし、その向こうに精神は見つからない。
自由意思が、自然法則の因果関係とは異なる結果を導く。
これはつまり、自由意思が、そこから新たな因果関係の連鎖が始まる第一原因であることを意味する。
このことは、意外と簡単に論証できる。
「人間は脳内化学反応に機械的に従っているだけで、自由意思は幻想である」というテーゼに内在する自己矛盾からそれを導出できる。
今夜はこんなモンにしておこう。
お楽しみは明日以降にとっておくのだ。(笑)