人類は、自らを家畜化した動物である。

人間以外の家畜動物だって、見方を変えたら、アレは野生動物を人間社会の一員とできるように改良したものなのではないだろうか?


家族の一員となるペットは言うに及ばす。

ウシやブタ、ニワトリ、ウマなんかも、野生の荒々しさは失われ、実に大人しく、人間のコントロールに従う。

そう考えると、家畜化というのはつまり、「人間社会への適応」という意味での社会化であると言い換えられるのではないだろうか。


さて、人間にとって、従順に社会に従うことが常に幸せであるとは、必ずしも言えない。

社会というものは、時に冷たく、融通がきかず、場合によっては個人を踏み潰そうとするシステムでもある。

承認欲求が満たされて、経済的にも不自由ない暮らしができたなら、その与えられた「家畜の幸せ」に我々は疑問を抱かない。

しかし、逆に社会システムに冷たくされた時、我々は、自身が何かに支配されて逆らえない家畜であるという事実を突きつけられるのかも知れない。(´・ω・`)


社会のルールに従って正しく生きているはずなのに、

なぜ自分はこんなに不自由なのか?

なぜ自分はこんなに辛い思いをしているのか?

なぜ自分はこんなにイライラするのか?


しかし社会というのは抽象概念である。

文句を言おうにも、或いは殴りかかってやろうにも、具体的な対象がない。(・_・;

そんな時反抗期の少年は、やり場のない怒りをどこかにぶつけようとして、盗んだバイクで走り出したり、夜の校舎の窓ガラスを割って回ったりするのだろう。

しかし、本当に悪いのは学校ではないし、ましてバイクの持ち主でもない。(笑)

では誰が悪いのか? 社会が悪い?

「社会」って誰だ?(笑)


このような時は、得てして政治家や公務員など、公僕の皆さんが生け贄になってしまうものだ。(-。-;

しかし少し考えたら、会ったこともない政治家やアカの他人の公務員と、自分の目先の不幸の間に因果関係なんかない。

ここで人類家畜化計画が登場するのだろう。


昔の人が、分からないことの原因を神様・仏様に求めたように、

現代人は、社会との軋轢が生み出す苦悩や生きづらさ、その他モヤモヤとした不満の原因を、社会を陰で支配する謎の団体に求めるのだ。

自分に関わる物事が、こんな風に理不尽に悪い方ばかりに向かってしまうのは、

何か意思ある存在がそれを企図しているに違いない。


無生物の振る舞いに「意思」を感じてしまうのは、素朴なトーテミズムである。

それが神様の起源であることは、以前別の論考で論じた。

昔の人は、山道を塞ぐように鎮座する岩石に、「ここから先には行かせない」という「岩石の意思」を感じた。そして、その岩石を山の神の依代として祀り、その先を決して踏み込んではいけない聖域と見做したのだ。

その迷信的思考の対象が、実体ある無生物ではなく、実態としての社会に向けられた時、人はその実態を企図した「家畜化計画の首謀者」を想定するのだろう。


目の前で起こる、「自分にとって不都合な事実」にそのまま向き合えば、それはそれだけの話である。

そこでやり方を変えたり工夫したりすることもできる。

しかしそこで、不都合な事実を企図する謎の団体を想定してしまうと何も出来なくなる。

その空想は、自分の思考を縛り、判断と行動の幅を狭め、人は自縄自縛の泥沼にハマる。迫害妄想というヤツだ。(-。-;


このように、古いオカルトは何も生み出さない。

想像力の信奉者たちは、人間の想像力なんて、所詮は本能と経験の延長にしかないということを理解すべきである。

本当に未知な何かがあるのなら、それは空想力で生み出すものではなく、事実そのもの中から発掘するしかないのだ。