世界は事実の総体であり、
物の総体ではない。
事実とは実現した事態である。
L. ヴィトゲンシュタイン著「論理哲学論考」よりちょっと改変
20代の頃、初めてこの本を読んだ時は、「だから何?」という感じで、サッパリ意味が分からなかった。(・_・;
衝撃を受けたのは、40代を過ぎてからである。(笑)
宇宙とは何だろう?
こう訊かれたら、宇宙空間に浮かぶ様々な惑星や恒星、星間ガスや暗黒物質なんかを想像するかも知れない。
これらの宇宙に詰まっている様々な物質(もの)の総体が宇宙であると。
この見方を敷衍すると唯物論になる。
世界は物理的実体とその相互作用の総体であるということになる。
これに対する分かりやすいアンチテーゼが唯心論や唯識論である。
物理的実体とは、我々が物理的実体として認識している何かである。
物理的相互作用とは、我々がそのように解釈した何かである。
世界とは、我々が認識することによって、そのような世界として成立している。
だから、世界とはつまり、認識主体による認識の総体である。
そして、それを認識する主体は、認識することによってのみ存在するし、認識が止まったら認識主体は消滅する。
すなわち、認識の総体とは認識主体そのものと同義であり、これが世界であると。
ヴィトゲンシュタインが提示したスキームは、このような見方とは観点が異なる。
世界とは事実の総体である。
惑星や恒星、星間ガスや暗黒物質が存在するというのは一つの事実であるし、それらの相互作用というのもまた、一つの事実である。
我々はあり得ないコトを空想する。
そのあり得ないコト自体は、あり得ないが故に世界の構成要素ではない。しかし、我々が何かを空想しているというのは一つの事実である。
この世界では、様々な出来事が事実として生じている。
物質も、現象も、認識も、全ては一つの事実であり、それらの総体がこの世界なのだ。(´・ω・`)
では、事実とは何か?
我々は、可能態として起こり得る様々な事態を想定する。
これらの想定のうち、実際に実現したコトが事実である。
私は一匹の犬を目にする。
その犬は、歩くかも知れないし、走るかも知れないし、泳ぐかも知れないし、チンチンするかも知れないし、電柱にオシッコするかも知れない。可能態として様々な事態が想定される。
やがて、その犬は走り出した。これが事実=実現した事態だ。
世界は「事実=実現した事態」の総体である。
では事態とは何か?
それは、論理空間においてあり得る命題である。
犬は走るかも知れないし、泳ぐかも知れない。これは論理的にあり得る想定であり、可能態だ。
しかし、「犬が因数分解される」というのは論理的にあり得ない。
それは、主語と述語があり得ない形で結合した矛盾命題であり、論理的に成立できない。
可能態として成立する様々な事態の中で、
実際に実現した事態が事実となり、
そのような事実の総体が世界である。
ここからが本題だ。
古いオカルトは、「事態」を扱う。
宇宙人について語るなら、
「人間の知識は不完全なので、どこかに人間が知らない宇宙人がいるかも知れない」
「それはUFOに乗って飛んできているかも知れない」
「プレアデス星団に宇宙人がいるかも知れない」
などなど、様々な可能性を語る。
それらは全て、可能態として語られる事態だ。
ネッシーについて語るなら、
「恐竜の生き残りかも知れない」
「新種の首長アシカかも知れない」
「イギリス政府は隠しているかも知れない」
これらも全て、可能態として想定された事態だ。
これに対して、ネオ・オカルティズムは「事態」を扱わない。
ネオ・オカルティズムは「事実」に立脚する。
宇宙人について語るなら、
まず最初に「地球という星に、実際に様々な生き物が存在している」という事実から始める。
ネッシーについて語るなら、
謎の生物の空想ではなく、湖水から検出されたDNAという事実から出発する。
「事実」を起点として、そこから確実に言えることを積み重ねていく。
それがネオ・オカルティズムの基本スタンスである。
ワクチン接種した翌日に、心筋梗塞でお亡くなりになった方がおられた。それは一つの事実であろう。(・_・;
しかしその事実をもって、ワクチンが心筋梗塞を引き起こすと言ってしまったら、その因果関係の解釈は可能態の一つに過ぎない。
まして、レプティリアンやイルミナティの人類間引き計画まで言い始めたら、それはそもそも論理的に成立するのかどうかも怪しい。(-。-;
陰謀論は、どこかで誰かがやっているかも知れない、様々な悪事の空想を並べる。
そして、それを可能態として成立させるための根拠を摘み取ることには熱心だが、あり得ないとする根拠はガン無視する。(-。-;
これはチェリー・ピッキングというやつである。(笑)
そして、多くの陰謀論者は「事態」と「事実」の区別がついていない。
「ワクチンが人類間引き計画のアイテムであることは、もはや事実として明白である」みたいな感じで。(笑)
こういうタイプの人は、勤め先で苦情電話がかかってきたら、事実関係を確認せずに「こんなコトを言う奴はあんな奴に違いない、こんなコトを目的にしているに違いない」と悪意あるクレーマー扱いして、結局は炎上させてしまうものである。
アンチと暴言で闘うネット勇者と同レベルだ。(-。-;
陰謀論は、まさしく古いオカルトのセントラル・ドグマであり、可能態としてあり得る「事態」を成立させようと躍起になるが、
それが実際に起こっている事実なのかを直接検証はしない。レプティリアン捕獲を試みたり、イルミナティ本部にカチコミをかける人は誰もいないのだ。(笑)
ネオ・オカルティズムは、こんな不毛なことは扱わない。
例え、誰一人事実関係を確認できなくても、
それが事実として起こっている確証が持てることを、その事実性の範囲内において扱う。
ワタシの目の前の受付にいる〇〇さんが、昨夜ワタシの申請のためにサビ残したのかどうかなんて分からないし、そんなことを問うのは不毛だ。
しかし、この国において、どこかで誰かが他人様の便宜のためにサビ残しているのは間違いない。
そういった小さな行為の積み重ねが、社会に与える影響を考えるのであれば、その「地下水脈の泡沫」論は、空想陰謀論よりも遥かに有意義であろう。