地球上での生命の誕生は、たった一度きりのイベントだったとする考え方がある。


現在我々が知っている地球生物は、総じて似通っている。

その大きさや形、習性は様々だが、細胞の基本設計は同じである。

多細胞生物になると、たくさんの細胞が集まった組織や器官を形成するが、これもやはり似通っている。

動物なら、ヒトと虫とヒトデは全然違う生き物だが、同じ基本設計の消化管があり、神経があり、循環器系もある。

植物や菌類だって、それぞれ基本設計は同じである。

そして、これらの生物たちは、全て同じデザインの細胞を持ち、繁殖システムも多様なようでその基本は共通している。


こういった、基本デザインの相同性を反映して、地球生物のDNAの塩基配列も総じて似通っている。

もちろん、種の違いなんかを反映して、配列が異なる部分はたくさんあるが、身体の仕組みの基本設計図となる部分は同じである。


だから、地球生物の分類体系を樹上図にしたら、一本の幹から枝分かれした図になる。

歴史を遡っていったら、動物、植物はそれぞれ一本の枝に辿り着くし、多細胞生物全体も一本の枝に辿り着くし、最後は全ての地球生物が一本の幹に辿り着くのだ。

これをDNAの塩基配列の相同性に基づいて論じたら、全ての地球生物は、遥か太古に生まれた、たった一匹のご先祖様から枝分かれして増えてきた、という話になる。

すなわち、地球生物は、太古の昔にたった一度だけ発生したという話になる。

もし地球上で、生物が独立して何度も発生したのなら、塩基配列が明らかに異なり、樹上図からはみ出してしまう生物がいるはずだ。しかしそんなヤツがいないのだから、地球上の生物発生はたった一度きりの奇跡だったのだろう、というワケである。


しかしこの考え方は、明らかにおかしい。

明らかな論理飛躍だ。


例えば、海水は基本的に食塩水である。

他にも様々な成分は含まれるが、ベースは食塩水だ。

このことをもって、「地球上で海はたった一度だけ生じた。もし海が何度も生まれているのなら、食塩水だけでなく、硫酸ナトリウム溶液とか、アンモニア水とか、様々な成分の海が存在するはずだ。」などと言う人がいたら、納得できるだろうか?


食塩水なんて、材料さえあれば簡単に作れる。

だから、食塩水の海が何度も独立して作られたって何の不思議もない。

むしろ、その時そこにある材料の殆どが食塩水の材料だけだったのなら、何度生まれ直しても食塩水の海にしかならないのは当たり前だ。


地球生物は、それが誕生した時代には、当たり前の話だが生命が誕生できる各種条件が揃っていたのだろう。

そこで同じ条件において同じ構造の原初的生物が何度も独立して生じていても、何の不思議もない。

元の出発点が同じ構造で、同じ環境において自然淘汰を受けていたのだから、そこから分化した生物たちも、そうズレた姿にはならないだろうし、それらを形だけ見て判断したら、「みんなよく似てる」という話になるだろう。

それらの相同性を数学的処理で計算したら、一本にまとまる綺麗な樹上図が描けるだろう。数理解析なんてそんなものだ。

数理分析はあくまでも数学操作に過ぎず、その結果をどう解釈するかは人間次第だ。


よって、重要なポイントは以下の点になる。

実際には、地球の初期条件において、我々のような生物とは異なる様態の生物が生まれる余地は無かったのか?

逆に言うと、我々が知っているような、こんな様態の生物しか生まれ得ない理由、他の様態では生物として成立できない何らかの理由があったのか?

実際のところ、生物になり損ねたような、生物とは塩基配列も基本デザインも全く異なるウイルスなんてのがいる。

ウイロイドになると、これはもう、塩基配列からして意味不明だ。


ここには、生物として成立するための、未知の構造的制約要因の匂いがプンプンする。

46億年に渡って途切れることなく繁殖し、進化し続けられる構造は、これ以外になかったのかも知れない。

さらに言うなら、多細胞生物だって、このような形でしかあり得なかったのかも知れない。異なる様態での多細胞化は不可能だったのかも知れない。

もっと言うと、意識や知能を高度に発達させて、ここまで辿り着いたのは、地球上では人間だけである。

ここにも、「こうでなければならない」何らかの構造的制約要因があったのかも知れない。

それは言い換えると、他の星で発生する生物は地球生物と似通ったものしかおらず、宇宙人は人間そっくりの姿にならざるを得ないという可能性をも示唆する。


まずはここまで。