「いい子にしていたら、クリスマス・イヴの夜にサンタさんがプレゼントを持ってきてくれる」

このような嘘を言うことに対し、どのような動機説明が可能だろうか?


①年中行事説

クリスマスというのは我が国の年中行事であり、サンタさんはファンタジーとして広く受け入れられている。

これは、お盆の里帰りや正月の初詣、お月見や七夕と同じような伝統行事であり、そこにおける根拠説明は、いわば社会のお約束である。

それは、一年という生活サイクルにメリハリをつけるために非日常体験を配置し、これを通じて心豊かな暮らしを維持する働きがある。

別にキリスト教徒でなくても、クリスマスにはケーキを食べ、プレゼントを交換し、何なら教会に行って牧師さんの語りに耳を傾け、優しい想いで家族や友人とのひと時を楽しめば良いのだ。それを嘘と非難するのは、単に無粋というものであろう。


②期間限定契約説

サンタさんの嘘を除いて、単に「いい子にしていたらプレゼントを貰える」という普遍的契約にしてしまうと、子供は「いい子にしていたら、いつでもプレゼントを貰える」と勘違いし、物欲の暴走を止められなくなる可能性がある。

これはあくまでもクリスマス期間限定のイベントであると理解させるための、分かりやすいストーリーが必要である。

それがサンタさんのファンタジーなのだ。

サンタさんというファンタジックな存在とその物語を提示することで、今だけの幸せを有り難みをもって味わい、感謝する心を育むことができるだろう。


③優しい心を育む説

人は生きていく中で、様々なファンタジー物語を楽しむものだ。

それを嘘や作り話として馬鹿にしてはいけない。

話自体は作り話であったとしても、そこに肩まで浸ることで、その物語に込められた様々な想い、感情を体験し、それが優しい心や理想を目指す強さ、その他様々な、生きていく上で大切なことを学ぶことができる。

サンタさんのプレゼントは、いわばアンパンマンみたいなものである。

幼いうちは、空想と現実の区別が付きにくいものだが、だからこそ、大切なことがデフォルメされて分かりやすく示される物語を自ら体験することで、人格を涵養することができるのだ。


④知恵比べが面白かった説

少しずつ成長するに従って、「実はサンタさんの正体は親ではないか?」と勘繰り始める子供たちに対し、あの手この手でバレないように知恵を絞る。

なんとかして正体を暴いてやろうとする子供と、子供をだし抜いてやろうとする親の知恵比べは、推理プロセスを通じて子供の知的発達に役立つであろう。

また、その正体がなんであれ、プレゼントを貰いつつ知恵を絞る子供は幸せであろうし、親もまた幸せだ。

これは親と子供の幸せなコミュニケーションであり、その嘘には悪意なんてないのだ。


さて、これらは随分と長い動機説明である。言い訳くさいと感じられるかも知れない。(笑)

そして、ここで告白せねばならないのだが、これら4つの説明は、すべてワタシ自身の犯行動機でもある。

これらを踏まえた上で、「この嘘は子供を幸せにすることはあっても不幸にはしないだろう」と判断したので、ワタシは確信を持って犯行に及んだのだ。


もちろん、実際にはこんな長い説明を頭の中に思い浮かべてから犯行に及んだワケではない。

私の思想信条は、私の思考の筋道を規定する論理回路として、私自身の頭の中に構築されている。

その回路を通じて、一瞬で計算された結論が、「この嘘は子供を幸せにすることはあっても不幸にすることはないだろう」だったのだ。

その論理回路を改めて分解し、言葉で説明しようとすると、こんな話になってしまう。


人の判断というものはそういうものだ。

「今日の昼ごはんはラーメンにしよう」と判断したとき、「なぜ、ラーメンなのか?なぜうどんや蕎麦ではダメなのか?なぜチャーハンと餃子ではなく、ラーメンなのか?」などと説明しようとしたら、その動機説明はいくらでも長くなってしまう。

しかしその判断は一瞬である。

時に優柔不断になってしまうことがあるとしたら、それはそういう状況において結論を導くための論理回路が頭の中に出来上がっておらず、それ故にいちいち言葉に置き換えて説明し、その是非を検証しようとするから、なかなか判断できないのだ、多分。


さて、ワタシはこの動機説明を、まだ子供には語っていないし、説明するつもりもない。

子供には子供の思想信条があるだろうし、彼らはそれに基づいて判断すれば良いのだ。その結論が「罪深い嘘」であったのならそれで良い。

そして、彼らにとって、かつてのクリスマスが楽しい思い出であったのなら、それ以上の説明は余計である。