久しぶりに長すぎるタイトルになった。

(-。-;


先日、岸田首相が屋外でのマスク着用は不要であると「宣言」した。

別に岸田首相の個人的見解というのではなく、専門家の意見なども踏まえた国の見解なのだろう。

しかし、実際に毎日外に働きに出ていると、屋外でマスクしていない人はほぼ皆無である。(・_・;


少し前までは、「欧米では今やマスクなんかしていない」「日本はいつも対応が一歩遅れている」「いつまで国民に不自由させておくつもりだ」「コロナなんてただの風邪だ」「政府は責任を持って方針を打ち出せ」ワーワーギャーギャーと、メディアもSNSも大騒ぎだったのだが、アレは何だったのだろう? (´・ω・`)


おそらく、声の大きい人が「正義の拳」を振り上げているのをメディアが取り上げ、それに理屈っぽいネット民が乗っかって騒いでいただけなのだろう。(-。-;


ワタシはどちらかと言うとマスクが苦手である。

眼鏡が曇るし、何となく息苦しいし、耳の後ろのゴム紐の装着感が頭痛と肩こりに直結しているような、そこはかとない違和感を感じることもある。(・_・;

とは言え、やはり外出する時はマスクを付ける。

人気が少なくなると、少しズラして鼻マスクにしたり、人気が無くなると顎に下ろしたりするが、向こうから誰かが歩いてきたら、キチンと装着する。外すのは自宅の中だけだ。


これを、「日本人は同調圧力に弱く、自己主張ができない」的に揶揄する人もいる。

しかし実際のところ、他にこだわるべき大事なコトや大切なコトが毎日たくさんある中で、マスク装着の有無なんて些細なことで自分を主張したいという動機は湧いてこない。(-。-;

大して不自由している訳でもなく、どうでもいいコトだから、取り敢えず周りに合わせておこうというのが、殆どの人の実感であろう。

マスク警察はいなくなったので、外したい人は勝手に外せば良いのだ。もう誰も怒らないだろう。


かつて、日本人の多くが待ち望んでいた筈の「マスク不要の暮らし」は、今や当たり前になった新しいライフスタイルの中で、無意味なキャッチフレーズになってしまった。

その日の暮らしや仕事に意識を向ける人々の上空を、妖怪「オクガイデノマスクチャクヨウハフヨウデス」が、着地点を見つけられない一反木綿のように、いつまでもフワフワと漂っている。

日々少しずつ移り変わっていく日常の中で、置き去りにされた言霊が心の片隅へと追いやられる。


しかし、妖怪オクガイデノマスクチャクヨウハフヨウデスは、我々の心のエアポケットで、静かに息を潜めているに違いないのだ。

コロナ第8波と冬のインフルの同時流行が始まったら、再びマスク着用が推奨されるかも知れない。

そうなると、また新たな怪異が始まるだろう。

例えば、「同時流行が予測されていたにも拘らず屋外マスク不要を宣言し、今になって発言を翻す政府の見通しの甘さが、対応を後手に回らせている」などと言う人がきっといる。


その時はこう突っ込んでみたいものだ。


いやアンタ、ずっとマスクしてたじゃないの。(・_・;