「生きている」とはどのような状態なのか?
一足飛びに結論に飛び付く愚は避けたい。
まずは「生」「死」という概念の性質を慎重に検討することから始める。
最初は思考実験からだ。
「この世界は、サッカーボールとそれ以外(非サッカーボール)より成る。」
この命題は正しいだろうか?
論理的には真であろう。
確かに、この世界はサッカーボールとそれ以外のモノからできている。「世界はモノの総体ではなく、事実の総体である」とかの細かい話は、今はまあ、ええやんか。(笑)
とは言え、この命題には誰もがそこはかとない違和感を感じるだろう。
サッカー選手がその生き様を語るのであれば別に良いが、普通に考えて「非サッカーボール」という概念に何かまともな意味があるだろうか?
サッカーボールという群には、サッカーのルールか何かで明確な定義を与えることができるだろう。
しかし「非サッカーボール」ってナニ?
これは単に「サッカーボールではない」という否定的なやり方で定義される外群であり、それ自体で何か意味のあるまとまりではない。
「非サッカーボール」というのは、サッカーボールの存在にその意味を全面的に依存しており、それ自体は空虚な概念である。
もしこの世界にサッカーというスポーツが存在しなければ、「非サッカーボール」を語ることはナンセンスなのだ。
だから、こんな物語はもちろんナンセンスだ。
「かつてこの世界には、非サッカーボールしか存在しなかった。
しかし、サッカーというスポーツが誕生した時にサッカーボールがこの世界に生まれた。
それ以来、この世界の秩序は、サッカーボールと非サッカーボールの論理的対立が適切なバランスに保たれることで成立している。」
まあ、おっしゃるコトは分からなくもないが、このヘンテコなカルト思想は何なのかと思うだろう。(笑) いや、別にサッカーが悪いとか言ってるのではないのだ。
しかし、このようなナンセンスギャグは、便宜的な方便として、思いの外普及している。
「無脊椎動物」なんてのがそうだ。(笑)
無脊椎動物というのは、脊椎動物に対する外群だが、それ自体には意味がない。単に小学生の学習プロセスを分かりやすく導くための便宜的な分類であり、方便である。(笑)
しかし、これがスピリ・カルトの元祖ルドルフ・シュタイナー辺りになると、事態は深刻である。(・_・;
「鉱物質は死んでいる」的な話が延々と続くのだ。
そう、これは生と死の対立を比喩的に言い換えた思考実験である。
改めて、本題に戻ろう。
「この世界は、生物と無生物から成る。」
この命題はどうだろうか?
「生物」は、「生」という状態を元手にして、何らかの形で積極的な定義を与えられるだろう。
しかし、「無生物」は外群である。
それは単に「生きていない」という否定的性質によって、あるいは生物から排斥されることによってのみ定義される、意味のない集合である。
だから、この世界に生物がいなかった時代には、そもそも無生物すらいなかったのだ。生物がいないところで無生物とはなんぞやを語るのは、ひたすらナンセンスである。(・_・;
シュタイナー神秘学の出発点は、「無生物は鉱物質であり、死んでいる」である。
いやいや、それは違うでしょ。(笑)
死というのは生と対になって定立される概念である。
生きていたものが、その活動を停止した状態を死と呼ぶのだ。最初から生きていないモノは死ぬコトすらない。(笑)
死とは生ある者から生が欠落した状態である。これは逆に言うと、生とは、いずれ死すべき運命の者が、まだ死んでいない状態であるとも言える。
生物はスイッチで起動・停止を繰り返す可逆的な存在ではない。
生→死は常に一方通行の非可逆的なことであり、それ故に相互依存的な定義が成立するのだろう。
先に生があるからこそ、その欠落状態として死を定立できるし、死が後に必ず来るから、まだ死んでいない状態として生を定立できるのだ。
以上は単なる形式論であって、「生」という状態の様相を具体的に説明しているわけではない。
しかし、形式から間違った議論をしてしまったら、あとの話はナンセンスギャグにしかならない。
何を言いたいのかというと、生と死は、生物のみに適用される状態なのだ。
無生物を死んでいると見做して、生物の生を説明するのはナンセンスである。
生物とは、生と死がある存在であり、今現在生きているということと、いずれそれが終わって死ぬということによって生物たり得る。
生物とは、いつか必ず死ぬ存在であり、それが生物の本質なのだ。(;ω;)