我々は、見かけが生物っぽく見える対象を生物っぽいと感じる。

生物っぽく見えるということは、それが主体として自律的に活動しているように感じられるということである。

自律的に活動していると我々が見做す表徴は、目標指向性があると判断できるような規則性と方向性(走性)が感じられることと、実際に観察される活動に不規則な揺らぎがあり、機械的・画一的でないということの2点である。


このように生物っぽいと感じられた対象に、自己維持するための内的機能が見出されたら、それを我々は生物であると見做すだろう。

この自己維持機能は、岩石のような「凍りついた頑強さ」ではない。常に活動し、変化する、その変化・活動そのものが、自己を維持する機能となっている。それは代謝機能であったり、自己保存行動であったりするのだろう。


細胞分裂や繁殖などの自己増殖機能もまた、広義には代謝の中に含められる。それは古い細胞を新しい細胞に更新していくことで多細胞生物個体の全体構造を維持する働きであったり、古い個体を新しい個体に更新していくことで個体群、ひいては生物界を維持する働きである。

よって、自己増殖は、それが自己維持機能として働くという意味において生物機能たり得るのであって、自己増殖自体は生物にとって必須の要素ではない。


以上のような生物機能が自律的であることを担保できるのは、それが自然発生的に生じた場合である。他者の設計によって与えられた機能である場合には、それは設計者の道具であって、真に自律的であるとは言い難い。


由来が分からない対象が、見かけ上、自律的に活動しているように見える場合、それが本当に自然発生したものなのか、あるいは自律的に活動するように設計された被造物なのかを、どのようにして見分けられるだろう。

この点に関しては、見かけの結果でしか判断できない我々には直接的に判断できる材料はない。


しかし、生物の由来に創造論の解釈を持ち込むと、それがナンセンスであるということが、逆説的に明白になるのだ。

「生物のように複雑でかつ合目的的に活動する存在は、奇跡であるとしか言いようがない。このような奇跡が自然発生するなぞ有り得ない話で、神が意図を持って創造したとしか考えられない。」

このように組み立てられた論理は、既に自己崩壊してしまっている。


もし、生物が自然発生することなぞあり得ない奇跡であるのなら、そのような生物を創造した創造主は、もっとすごい奇跡であるということになる。

そして、奇跡であるが故に、意図的に創造されたものであるとしか考えられないのであれば、もっとすごい奇跡である創造主は、なおさら何者かの被造物であるとしか考えられなくなる。

これはよく知られた、原因の無限後退だ。

この矛盾論法を修正する方法は明白であろう。


我々は単に生物の由来という手品のタネを理解できていないから、奇跡であるように感じているだけなのだ。これは科学的アプローチの基本姿勢でもある。

奇跡を創造主で説明するというのは、分からないコトを分からないモノで説明するということである。これは結局何も説明していない。

まして、それを「ほかに考えられない」と断言してしまったら、それは結局、思考放棄であろう。

都合の良い説明概念をでっち上げて継ぎ足していけば、どんな無茶苦茶な説明だって可能になる。そんなものは説明ではなく思い付きの空想でしかない。

このように、創造論やID論は科学を騙る反知性主義の一種であると自ら宣言してしまっているのだ。


ネット検索でお手軽に答えが得られる時代である。

しかしその答えの内容を吟味する能力を育むためには、他者に頼らず自らで答えを考え抜くことを繰り返すしかない。

何も考えずにネットに答えを求める世代は、何も考えないままに、分かりやすい答えを宣伝する反知性主義に洗脳されやすい。

ICT化の進展と共に、猿の惑星化が進んでいると危惧するのは私だけなのだろうか?