自己増殖するもの=生物ではない。

複製プログラムを与えたら、機械だって自己増殖できるだろう。

生物の自己増殖も、基本的には遺伝子プログラムに沿った機械的プロセスだ。

生物であるためには、他の条件も同時に満たされなければならない。

つまり、「自己増殖するものが生物」なのではない。

これは消去法で生物以外のものと生物を区別するための条件の一つに過ぎない。

これは、「自己増殖しないものは生物ではない」という意味なのだ。


さて、生物における自己増殖という現象は、単一の現象ではない。

単細胞生物は、基本的には細胞分裂して増殖する。単細胞生物における自己増殖とは、すなわち細胞分裂だ。

これに対して多細胞生物はどうだろう。

多細胞生物だって細胞分裂するし、それは多細胞生物における自己増殖プロセスを構成する重要な要素の1つである。

しかし、多細胞生物における細胞分裂は、通常は個体内で古い細胞を更新していくための代謝プロセスの1要素に過ぎない。

多数の細胞が集まって構成される多細胞生物において、自己増殖とはたくさんの細胞からなる構造全体の分離と再構成である。

つまり、単細胞生物の個体と多細胞生物の個体は、異なる階層に位置付けられるシステムであり、両者における「自己増殖」は異なる階層に位置付けられる別現象なのだ。


さらに細かく見ていくと、事態はかなり複雑である。

粘菌はアメーバと呼ばれる単細胞のライフステージと、たくさんの細胞が集合して複雑な組織と器官を形成する多細胞のライフステージを持ち、そのそれぞれで自己増殖する。

植物では、花粉が雌しべについて授粉する種子繁殖とは別に、芋やむかごのような栄養繁殖も行う。トマトは折れた枝を地面に放置したら勝手に根付いて野良トマトになったりする。

クラゲやイソギンチャクは複雑なライフサイクルの中の異なるステージで、異なる繁殖様式での増殖を行う。

このように、生物個体が異なる階層のシステムとして現れる場合があり、繁殖も様々な様態で行われる。

こうなると、生物における個体性とは何なのかという事になってくる。

プラナリアを真っ二つにしたら、それぞれが再生して別個体になる。これはどちらがオリジナルで、どちらがコピーなのだろう?

このように、個体性が曖昧で統一的に理解できない生物というものにおいて、自己増殖とは一体何が増殖しているのかという話になってくる。


ここを上手く丸め込んだのが「ダーウィン的進化が可能」という宇宙生物学の定義であろう。

個体性の捉え方や繁殖様式は様々であっても、そこには共通する要素がある。

それぞれの階層の生物個体が、その都度のステージにおいて、とにかく自己増殖する。

そして、その増殖は完コピではなく、バグを含む不完全なコピーである。

これが変異を生み出し、自然淘汰を通じた進化の原動力となる。

つまり、「個体」の定義が問題となる自己増殖という概念を前面に出さず、世代交代という側面のみをつまみ取り、世代を超えた振る舞いとしてのダーウィン的進化の方で生物を特徴づけようというわけだ。


ここまでは生物学の話だ。

さらに先へ進んでみよう。

生物における個体性は様々な階層に及び、統一的に捉えることはできない。

ライフステージによって階層が変化するということは、そもそも従来の素朴な個体概念自体が怪しいという話になる。

「個体」が幻想であるならば、そもそも自己増殖するというのは、生物にとって本当に必要な要素なのだろうか?

具体的に考えてみよう。


樹木は、もちろん繁殖する。

受粉して種子を形成する有性生殖を行うし、切った枝を挿木や接木して栄養繁殖させることもできる。

身体の一部を切り離したら別の個体になるという現象は、細胞分裂を介さない増殖である。


さて、樹木は春になると新芽が動き出し、新たな当年枝が伸び始める。

この時、新芽の生長点が芽条変異と呼ばれる突然変異を起こし、元の樹とは性質の異なる枝が伸びてくることがある。

これは、果樹栽培では「枝変わり」と呼ばれる。カキやミカンの早生品種の多くは、枝変わりを見つけたものだ。

「この枝だけ熟すのが早い?」というヤツだ。

そして、この枝変わりした枝を大きく育て、ここから切除した枝を接木して増やしたものが、早生の新品種になったりする。

察しの良い方はイメージできると思うが、樹木の枝は、一本一本が本体と結合した別個体のようなものである。

大きく育った古木になると、恐らく(気付かないだけで)遺伝的性質の異なる多数の枝がより集まったキメラ個体のようになっているのだろう。

その中には、例えば暑さに強い枝や弱い枝があり、異常高温の年には弱い枝が枯れて、強い枝が残るという自然淘汰が起こったりするかも知れない。


さて、もし我々が出会う宇宙生物?が、これをもっとスケールアップしたようなヤツならどうなるだろう。

細胞は分裂するが、分離せずにどんどん大きな細胞塊となっていく。

外部環境の淘汰を受けて生き残った強い細胞が外皮として外面を覆い、その内側では別の適応が進む。細胞塊全体の集団淘汰のような形で感覚器官や神経系も発達するかも知れない。

このように、分離せず、増殖もせず、世代交代なきままに何億年も生き続ける。

こんなヤツが知的能力を発達させたらどうなるか?


人間は、どんな天才だって死んだらそれで終わりだ。

新たに生まれた子供は、学習を一からやり直さなければいけない。

しかし、世代交代の無いヤツが何億年も生き続けたら、知恵と知識は効率的に集積されていく。

あるいは、概念的思考なんて持たなくても、試行錯誤の繰り返しだけでモノスゴイ技術を発達させたりするかも知れない。星辰の彼方まで何億年もかけて飛んでいけるような。


このような、自己増殖せず、寿命も世代交代もしない「星辰の彼方の巨大な老賢者」がひょっこり現れたら、我々はそれを生物と見做すのではないだろうか。


さらに言うなら、この地球外生物が、全然賢くなく、おおよそ進化とも淘汰とも無縁そうな単なる原始的な細胞塊であったとしても、それはやはり生物と言えるのではないだろうか。


もっと言うなら…いや、一旦こんなモンにしておこう。(笑)


「自己増殖する」とか、「ダーウィン的進化が可能」というのは、それがあれば確かに地球生物的ではあるが、決して生物に必須の条件ではないのだ。