ルンバは生物っぽく見えるが生物ではない、と普通は考えるだろう。

アレは、動作が生物っぽく見えるように設計されているのだろう。


先に、「生物とは、つまり我々が生物だと直観するものだ」と論じた。

しかし我々は、単に生物っぽく見えることをもって、それを生物とは見做さない。

では、我々は具体的に、どのような性質をもって、それが生物であると見做すのだろう?


ここからは、まず、与太話の思考実験である。


髪の毛が伸びるお菊人形は生物なのだろうか?


心霊主義者は、肉体という器に心としての霊が宿っているのが生き物であると語る。

肉体は単なる器に過ぎず、心=霊が抜けると死体=単なる物体になる。

霊こそが生の本質であり、これが生命エネルギーなのだ、などと熱く語ったりする。


それならば、人形という器に霊が宿って、髪の毛が伸び続けるという生命活動(?)を行うお菊人形は生物になるのではないか?

こう問いかけると、きっと彼らは「否」と答えるに違いない。


お菊人形は、単なる人形に霊が宿っているだけだ。

生物とは、親生物の生殖活動によって生まれたものである。何を非常識な事を言っているのかと、せせら笑う声が聞こえるようだ。(笑)

しかしこの嘲笑は自覚なきブーメランである。(-。-;


心=霊が生命の本質であり、肉体は器に過ぎないのであれば、お菊人形だって、自我に目覚めたAIだって生物だ。器が何であるかは本質ではない。

逆に、親生物の生殖活動によって生まれるのが生物であるのなら、生の本質は器の由来と素材に宿っているのだということになる。


では、素材や由来が生物ではないのに心=霊が宿ったお菊人形は何なのか?

アレは単なる物なのか?

いや、もちろんそんな話は、単なる与太話だと思うのだが、コレは思考実験である。(笑)

ここで面白いのが、日本には「妖怪」の伝統があるということだ。

付喪神のように、単なる物に心が宿った存在が語られる。

これは生物でも無生物でもない、「物の怪」という第三のカテゴリーなのだろうか。

こう考えると、生物学が発展していなかった時代の人でさえ、あたかも心を持つかのように振る舞う物、すなわち生き物っぽいが生物ではないモノを、物の怪と見做して生物とは区別していたと解釈できる。

人は、心を持つということと生物であるということを何処かで区別し、生き物っぽいから生き物であるわけではないと認識しているに違いない。

認知科学における「不気味の谷」というのも、まさしくここにおいて発生するのではないだろうか。

不気味の谷とは、人でも物でもない認識の隙間、心のエアポケットに人型の物の怪が発生するポイントなのだろう。


私自身は、生物とは心=意識の有無とは関係ないと考えている。

高度なAIは自己意識を持ち得ると考えているし、ルンバだってそれなりの自己体験を持っている可能性があるとすら考えている。

しかし、アンドロイドやルンバやお菊人形が自己意識を持っていたって、それは生物ではない。

心や意識を持つということと、それが生物であるということは無関係である。

逆に、バクテリアは自己意識を持っていないかも知れないが、それは確かに生物である。

そしてさらに暴走するなら、自己意識を持ったAIロボットは、例え生物ではなくとも人権が認められるべきだとも考えている。その自己意識を客観的に確認するのは極めて難しいが。(笑)

しかし、だからといって、単純に素材や由来が生物であるコトを決定しているとも思わない。

素材が炭素骨格の有機物である必要はないと思うし、「親生物の生殖活動」由来というのは、親のいない最初の生物に適用できない。


ちょっと長くなり過ぎたので、一旦ここまで。(笑)