「信じる者は救われる」という教訓(?)がある。

自分は高級霊様の加護を受けているとか、

自分の恋人は前世で誓い合ったツイン・ソウルだとか、

そういうコトを信じ込めるヒトは、きっと色んな意味で「幸せ」に違いない、というような気はする。σ(^_^;)


しかし、ちょっと待ってほしい。

ここで「信じ込めたら幸せに違いない」というのは、高級霊様も、ツインソウルも信じていない一般人の推測であろう。

そういうコトを信じられない人間から見たら、信じ込めるヒトは幸せに違いないように思えるという、これは他人から見た憶測に過ぎない。

実際には、そういうコトを信じているヒトというのは、結構、不幸だったりするのではないだろうか。

幸せでないから、幸せに縋りたくて信じようとしてしまうのではなかろうか?(・_・;


高級霊様を信じたって、宝くじで1億円が当たるわけではない。

ツインソウルを信じたって、振られる時は振られる。

実際には、本当に心の底から信じているのかも怪しいのではないだろうか?(・_・;


カルトやスピリにハマるヒトは、教祖様を信じた結果、幸せであるというよりは、「信じたら幸せになれる」というコトを信じておられるだけのように感じる。


ヒトの幸せというのは、多分、そういうのではない。

もっと身近で、手の届く範囲に転がっている、意外としょうもない何かである。と思う。(^ ^)


幸せというのは、「私」の主観的体験として在る感情である。

他人の「幸せ」は、所詮は他人事であって、我々は憶測することしかできない。それは「私」の体験としての幸せではない。


だから、他人事として語られる「信心の行き着く先にある幸せ」というのは、決して辿り着けない彼岸の風景なのであろう。(-。-;