人間は、自らを家畜化した動物だと言われることがある。

これはどういうことだろう?


家畜化された動物は、基本的に大人しい。

ペットの犬や猫はもちろん、牛や豚、鶏、馬だって、野生の連中に比べたら大変大人しい。

人間社会に混じって飼育できるように改良され、或いは躾けられた結果、彼らは野生の荒々しい本能を失っている。

十分な餌と身の安全を確保され、人間にとって都合の良いように、言い換えると人間社会の一員として適応できるように、野生の本能を壊されたのだ。


そして、これは人間自身についても言えることだ。

社会生活に適応できるよう、腹が立っても暴力に訴えず、欲望のままに振る舞わないよう行動を制限するように学習を施され、その結果、人間は総じて大人しくルールに従い、発情期なども失っている。

そのような人間が、突然野生の中に放り込まれたらどうなるのか?

マンガの中では無人島独りぼっちのようなストーリーが出てくるが、アレを本当に実践できる人間は、そうはいないだろう。

いや、まだ無人島ならマシだが、猛獣や毒虫や得体の知れない疫病が蔓延るジャングルの中で生きていける人間は、そうはいまい。

小野田さんのような逞しいヒトは、ほんの一握りだろう。


と、こう言うと、文明化されたことが悪いコトのように聞こえるかも知らないが、そうではない。

人間は、文明化することによって、群れとしてこの世界に適応しているのだ。

社会秩序を守り、安全で安定した暮らしの中で知識を蓄え、知恵を育み、技術を生み出し、頑健なこの文明社会を作り上げてきたのだ。


人類は、自然淘汰による、犠牲の多い生物進化に依存した発展から手を切り、創造力を高めることで発展する道を選んだと言える。

この線に沿って考えるなら、モラル的命令によって本能を抑圧し、自覚できる意識と深層に押し込められた無意識を分裂させる生き方は必然である。

我々は本能的命令に機械的に従うロボットではなく、自由意志によって自らを選択できる生き物である。

もちろん、抑圧された本能は、自覚なきままに我々の心を揺さぶり、振り回し、時に望まぬ形で人生を規定してしまうのかも知れないし、場合によっては心が保たなくなってしまうかも知れない。

しかし、そのような不完全性に悩みつつも、我々は自らを選ぶことができる自由意思の価値と、創造することの素晴らしさを知っている。


利己的遺伝子説はすっかり世間に定着し、時にはそれがモラルのベースであるかのように語られるが、そもそも自然淘汰プロセスにおいて遺伝子が「利己的」に振る舞うというのは、当たり前の同義反復である。

そして、そのような遺伝子に規定された生き方から手を切り、自由意思によって文明と社会を構築するというのが、人類が選んできた歴史なのだ。


お腹が空いたらご飯を食べるというのは、遺伝子に規定された衝動なのだろう。

我々は、そのような遺伝子を淘汰によって獲得してきた人類の末裔である。

しかし、我々はお腹が空いた時に、ご飯を食べることも我慢することもできる。

そのような自由な選択が可能な条件において、敢えてご飯を食べるということを自ら選択した場合、その選択は遺伝子に支配された奴隷としての行動ではない。


人間の行動の多くは、自然淘汰によって獲得された機能として説明できるかも知れないが、言葉の上で説明が可能であるということは、それがそのまま真実であるということを意味しない。

我々は能動的に考える認識主体であり、自らの選択を動機として行動できるのだ。

例え本能に従った行動であっても、それが自由意思を持った主体としての選択に依るのであれば、それは利己的遺伝子を原因とする行為ではなく、認識主体の動機に基づく行為である。