もし世界の外側があるなら、その外側も世界の一部ということになってしまう。だから、それはもはや世界の外側ではない。
こんな話は誰でも聞いたことがあるだろう。
私もよく使っている。(笑)
これは素朴な矛盾命題だ。
「世界」という言葉は様々なニュアンスで使われるが、最も普遍的なニュアンスは、「外界の全てを包括する全体」であろう。
それは、現実態として存在するものだけとは限らない。
論理空間としての世界を考えるなら、可能態として存在し得るもの、過去に存在したものや、これから存在するかも知れないものも含めて、全てが「世界」の中に詰まっている。
だから、その世界の外側を、例えその実態は分からなくても、何らか形で想定してしまったら、そしてそれを「世界の外側」として言い表してしまったら、そこはもはや世界の外側ではない。
では、「世界」は無限の広がりを持つのだろうか?
例えば、ビッグバン宇宙論は、この宇宙の広がりが有限であるとしている。
しかし、ビッグバン初期の状態を記述するインフレーションモデルは、この宇宙と同じようにビッグバンを起こした宇宙が、他にもたくさん存在する可能性を語る。
つまり、「この宇宙」は有限であっても、他にも沢山の外宇宙があり、それらを包括する全体がどうなっているのかはサッパリ分からない。
よくよく考えてみると、ビッグバン宇宙論は、別に宇宙が有限であるとは言っていない。
ビッグバン宇宙論が語るのは、我々が現時点で知り得る「この宇宙」が有限だと言ってるだけである。同じような他の宇宙が存在しないとは一言も言ってないし、インフレーションモデルのようなものが出てきたら、我々が想定し得る宇宙の範囲は広がる。
つまり、ビッグバン宇宙論が語る宇宙の有限性というのは、単に我々が知り得る範囲の有限性を語っているに過ぎない。
では、やはり世界は無限なのだろうか?
ここで我々は、決して越えられない彼岸の壁に突き当たる。
人間が認識する空間は、元々無限設定になっている。
直線は無限の長さを持つ線として想定される。
我々は外界を空間的構造としてしか認識できないが、そのフォーマットである空間は、無限設定になっている。
だから、世界は無限の広がりを持つかのように認識してしまうし、我々は他のフォーマットを持たない。
その一方で、我々は世界に「世界」という名称を与えてしまう。
思考対象に「世界」という名称を与え、その世界について何事かを語り始めた途端、その世界は我々が「あんなもんだ、こんなもんだ」と語り得る対象になってしまう。
要は、認識された世界は、認識し得る有限な対象になってしまうのだ。
もし世界が無限であるとしても、有限な知識しか持ち得ない我々はその世界の全体を決して把握できないし、世界が無限であることを知ることはできない。
我々は知識と空想の翼で辿り着けるところまでしか認識し得ないのだ。
それにも拘らず、我々は無限概念からの論理的帰結として、有限な「世界」の外側に広がる「無限の世界」を夢想してしまう。
それは、決して辿り着けない彼岸の風景である。