モラルの論考をやっている最中なのだが、どうも考察が進まないので、少し浮気をしてみたい。

平行して色々やるのも、楽しく生きるためには、また大事なことだ。多分。(笑)


さて、ここで言う「彼岸」というのは、もちろん、「死後の世界」の類ではない。(笑)

もちろん、そういうのも含まれるとは思うが、「彼岸」という言葉はそんな単純なニュアンスの言葉ではない。


彼岸とは、人間の感性や理性が及ばないところ。

単に見えないとか、物理的にたどり着けないとかいうレベルの話ではなく、推論や想像が及ばないところ、原理的な理由で知り得ないもの、感性や理性の限界の向こう側だ。

いつも語っている、「神」なぞはまさしくそういう概念である。


それは、端的に言うと虚構だという話になってしまうのだが、その虚構は人間の認識の限界点を明示するという点において、大変面白そうなのだ。(笑)


「彼岸」には、大きく2つのニュアンスがある。

一つは経験論的な限界の向こう側。

もう一つは、理性推論の限界の向こう側である。


まずは一つ目の経験論的限界について。

これは感性の限界である。


人間は、自覚の有無に関わらず、生得的な経験論者であり、自らの経験の引き出しにないことは、想像することすらできない。

例えば、トマス・ネーゲルを引き合いに出すなら、人間は「コウモリであるということ」が、どういうことなのかを理解できない。

コウモリは、超音波を使ったエコ・ロケーションにより、漆黒の暗闇の中を飛ぶ獲物の、形や大きさ、飛行経路を克明に知ることができる。

しかし、人間にはこのような感覚自体が備わっていないので、コウモリさんが感じている世界を、我々は想像することすらできない。


妖怪や幻獣は、どんな奇態な姿であっても、それは我々が知る生き物を加工した姿である。

宇宙人なんて、地球とは全く違う環境で、我々とは全く違う歴史を歩んできた生き物のはずなのに、その姿は人間のカリカチュアではないか。

霊格だの魂レベルだのでランク付けされる死後の世界なんて、卑近な現実の粗末な映し絵すぎて興醒めだ。

人間は、自分の経験の延長でしか物事を想像できないのである。

このように、人間の感性は、経験論的限界に縛られているが故に、その向こう側を想像することすらできない。

しかし、その向こう側を仄めかす何か、例えば先のコウモリのエコ・ロケーションのようなものを想定できたとき、我々は、我々の現実と彼岸が接するその外縁に、そっと触れることができるのだ。