功利的契約はモラルになり得るのだろうか?


功利的であろうと、排他的であろうと、とにかく契約が成立するということは、何らかの同意が成立したということである。

それは、何らかの判断が共有されたということでもある。

両者は同じ価値観を共有し、同じルールの土俵に立てたから、契約が成立したのだ。


スポーツの試合は、同じルールに同意し、そのルールが表す、やっていい事といけない事の価値体系を共有したから成立する。

バレーボールとバスケットボールの異種格闘技戦は、ルールの共有が難しいに違いない。(笑)


そういう意味では、功利的契約を目指すことは、価値観を共有するための試みであると言える。

感情論を廃し、何かあった時の判断に齟齬を生じないよう、一つ一つの条文を丁寧に検討し、最後に同意する。

これはモラルなのだろうか?


取り交わした契約は守らなければいけない。

これは確かにモラルだ。

しかし、その契約の一つ一つの条文がモラルに該当するのかというと、それはやはりモラルではなく契約だという気がする。


「約束を守りましょう」というモラルはある。

これは社会を維持するために誰もが共有しておきたい集合的価値観だ。

しかし、その約束の内容は、単なる契約上の条文に過ぎない。

つまり、これは「約束を守る」という集合的価値観があらかじめ共有された上での話だ。契約交渉における利害調整は、モラルを形成するためにやるのではない。これはモラルが形成された後にやることである。


あるいは、物品購入契約の場合、販売者が提供する物品と購入者が支払う金額が、お互いに釣り合うと納得できるところで成立する。

これは、経済的価値観があらかじめ共有された後にやることだ。


細かいことをクドクドと書いているが、ここがポイントである。

功利的契約を締結するための利害調整は、価値観の調整ではない。そこで形成するのは集合的価値観ではない。集合的価値観は既に出来上がっている。

そして、モラル形成の一番の問題は、個的価値観が異なる者同士で、どうやって集合的価値観を形成するかということなのだ。

この、個的価値観の間に横たわる「死の谷」を、どうやって踏み越えたらいいのか。

所詮は感情論なのだから、理屈で考えても仕方ないようなことなのだろうか。