前節では、正義は集合的価値観であると論じた。

「私の正義」は単なる個的価値観であり、それを正義と称するのは独善であろう。

しかし実際のところ、世界中の全ての人が納得して従うような正義があり得るのだろうか?

これは否だと思っている。


正義は、「神」という概念に似た理念の極限であり、究極の正義は決して届かない彼岸にある。

そして、正義の執行者は権威を纏うが故に、究極の正義は独善になるというジレンマがある。

正義とは、時代や地域によって揺れ動き、柔軟に変化するべきであって、唯一絶対の究極的正義というのは、それ自体が矛盾命題である。

しかしそのことは、正義を個的価値観に解消すべきということを意味しない。

この点は、後に論じることとする。


まず身近な問題として、我々は、集合的価値観としてのモラルを、どのようにして定めたらいいのだろう?


理解と納得は異なる。

頭で理解はできても、感情で納得できないモラルには人は従わない。

感情論が人それぞれである以上、誰もが納得する理念としてのモラルは難しい。

では、モラルは、誰もが納得できるような利害の調整に解消すべきなのだろうか?


ここで注意すべきことは、利害調整というのは、あくまでも利害の調整であって、価値観の調整ではないということだ。

例えば、経済的利益・不利益を調整する場合、そこには経済的価値という同じ価値観が既に共有されている。

貨幣価値によって測定される経済的価値が共有されているからこそ、そこにおける利害を調整できるのだ。

だから、異なる思想・信仰を持つ国同士で貿易が可能となる。


そういう意味では、貨幣経済というのは人類史上で唯一、世界が共有することに成功した価値観であると言えるのかも知れない。お金の力は結構バカにできないのだ。

異なる思想、異なる信仰、異なる感情論を持つ国々が、貨幣経済によって繋がることができている。

戦争の補償も、名誉毀損の訴訟も、結局はお金の話になってしまうではないか。

お金は、どんな人同士であっても繋げることのできる、エスペラント語もビックリの唯一の「共通言語」なのだ。

だから、国の豊かさはGLPやGDPで語られるし、労働の過酷さは賃金単価で語られる。

サービス業などという実体のない商品にお金を払うのも、納得感の経済評価である。

人は理解できなくても納得したらお金を払うし(それ故に詐欺にも騙されるのだが)、納得できる金額で折り合いをつけたら文句は言わない。こんな万能の価値体系はない。

お金、お金、お金! 何でもお金だ!(・_・;


しかし、経済的価値は共有できても、これが正義のような価値観の共有になると、大変難しい。

異なる思想ならともかく、異なる信念を一致させるなんて不可能ではないか。ましてそれが感情論であればなおさらだ。

世界の国々が、軍備の増強に湯水のごとくお金を突っ込むのも、経済が価値観に引っ張られてしまうということだろう。

経済的価値が正義や理念といった価値観を決定するのではない。人は価値観に基づいて経済的価値を評価するのだ。


ここで我々は再び、「理解と納得は異なる」という格言を思い出してため息をつくことになるのだ。

経済的な利害の調整なんて、価値観の対立の前では無力であるということを、我々は今再び、ウクライナ情勢という形で突きつけられているのだろう。