動機とは何だろう?
我々が何らかの行為を行うとき、心的因果関係において記述される、その行為の原因が「動機」であろう。
これをもう少し丁寧に見ていくために、まずは物的因果関係との比較で具体的に考えてみる。
私が走るとしよう。
「走る」という行為の、物的因果関係における原因は、脚の筋肉繊維の伸縮であり、そのような筋肉繊維の伸縮を指示し、コントロールする脳神経系からの電気信号ということになるのだろう。
これに対し、「走る」という行為の、心的因果関係における原因、すなわち動機は、「何となく走りたい気分になった」とか、「待ち合わせ時間に遅れそうになった」とか、そういうことであろう。
少し考えると分かると思うが、ここにおける物的因果関係と心的因果関係は必ずしも綺麗な対照関係にはない。しかし、私の「走ろうとする意思や判断」は、脳からの電気信号と関係しているのは間違いないだろう。
人は、心的な動機によって判断し、行動する。
その判断には、先に考察した「価値」が深く関わっているに違いない。
価値に基づく判断が動機となって、我々を何らかの行為へと導くのだ。
しかし、そのプロセスを詳細に記述するのは困難だ。
なぜなら、人は時として、自分自身を騙し、動機を偽る動物だからだ。
そして、それは全て「私」の心の中で起こっている事であり、外から眺める他者には、私の心の中を客観的に確認しようがない。
このような、客観的に確認しようのないプロセスを捨象し、客観的に確認できる外部刺激とその反応行動のみで心を記述しようとしたのが行動主義である。
初期の行動主義は、刺激ー反応系として人の行為を捉え、その真ん中に位置する「心」をブラックボックスとした。
しかし、近年の脳科学の発達により、我々は、人が何かの行為を行う際の脳内プロセスを客観的に解析できるようになった。
そのため、最も極端な考え方として、心=脳と捉える見方も現れた。
脳内反応プロセスを解明したら、人の心は物的プロセスとして説明できると考える人々が少なからず存在する。心的因果関係とされていたものは、物的因果関係に還元できると。
しかし、これはやはり極論だろう。
我々が赤い色を見て「あ、赤い」と言う時の脳内プロセスは詳細に観察可能かも知れない。
しかし、そこに見出されるのは、脳神経細胞内の電気的プロセスに過ぎない。
その時我々が体験している「赤の質感」は、どこにも出てこないのだ。
「赤」は、なぜあのような質感で感じられるのか、あるいは「青」は赤とは違ってなぜあのような質感で感じられるのか、こういった様々な質感が、どこからどのようにして生まれるのかは、いくら脳内を切り刻んでも出てこないし、電気信号を組み合わせてもそれが色の質感になるわけではない。これは、認識主体として、自らの主観的体験として捉えることしかできないし、科学の客観的方法論では原理的に説明できないのだ。
だから私は、脳科学や行動主義の成果を真であるとして認めつつも、なお、主観的体験の価値を棄却するつもりはない。
ファンタジーは、ファンタジーだからこそ価値があるのだ。
そして、その価値に基づく判断を動機として人は行動する。
サンタクロースはファンタジーだが、それを動機として、人はクリスマス・イヴの夜に子供たちの枕元にそっとプレゼントを置く。
そのような、ささやかな動機に導かれた行動が、我々の現実を形作り、この小さな星の上の物的状態を少しばかり変えるのだ。
例え我々の存在が、この広大無辺な宇宙の中では取るに足らないちっぽけなものだとしても、その心の中の小さな意味が、ほんの少しでも世界の物的な現実を変えるというのは、奇跡のように不思議なことである。
さて、価値と動機を繋ぐものは判断である。
価値に基づく判断が、行動の動機を生み出す。
次は「判断」について考えてみる。