ヒトは意味を動機として判断し、行動する。

というようなコトに最初の方で触れた。

これは心的因果関係の説明だ。


物的な因果関係は、物体と物体の物理的な接触、すなわち物的な相互作用によって説明される。

磁力とか重力のように、離れた物体間で起こる相互作用であっても、力の媒介粒子を交換することとして説明される。

これが唯物論的な説明のスキームだ。

サイコキネシスとかテレパシーとかの超能力も、霊だの死後の世界だのも、(それがあるとしての話だが:笑)結局はそういう話になってしまう。3次元空間では離れていても、4次元では繋がっているとか、重なっているとか、唯物論丸出しだ。(笑)


外部の対象の振る舞いを合理的に説明しようとしたら、そうならざるを得ない。

人間は、外部の対象を空間の様式に落とし込む形でしか把握できないのだ。

それが何次元であろうと、物理的広がりを持った空間上に定位できる何物かの、物理的広がりを持った空間上の振る舞いとして説明しようとしたら、それが唯物論スキームの説明になるのは分かり切った当たり前の話なのだ。

だから、霊だの魂だの霊界だのと言う方が唯物論をバカにしておられたら、その方は知らないコトを憶測と思い込みで語るような方だと判断できる。


さて、冒頭に戻る。心的因果関係とは何なのだろう?

心は物的空間に定位できない。

肉体から「分離した」魂が、墓地や心霊スポットなどという物理的空間上をフヨフヨと「漂う」なんて、そもそも原理的に有り得ない話なのだ。

物体から分離したり、その辺を漂ったりするモノは、空間上に定位される物的な何物かであって心ではない。


では、心的であるということは、どういうコトなのか?

ここまでの考察を整理すると、以下のような感じになる。細かい説明が面倒くさいので、ちょっとヴィトゲンシュタイン風の箇条書きにしてみる。


1. 認識主体は、対象を質感として認識する。

1.0 この質感が、主体にとっての意味である。

1.1 よって、意味は認識主体に属する。


2. 認識主体は、質感として得られた認識像を解釈する。

2.0 解釈するということは、価値を与えるということである。

2.01 価値はプラスの大きさ、あるいはマイナスの大きさ、あるいはゼロの大きさを持つ。

2.010 価値の大きさとは物理的な大きさではない。それは比喩表現としての大きさである。

2.02 価値とは、認識像に付与される質感である。

2.1 認識像と、そこに付与される価値は、いずれも質感である。

2.10 質感は分析できない。

2.11 よって、認識像とそこに付与される価値は一体であり、認識主体にとっては切り分けが困難である。

2.2 認識主体に対し、対象は認識像として与えられる。

2.3 よって、認識主体にとって、対象の解釈とはすなわち対象の価値である。


3. 認識主体は、解釈した認識像を名付けて、言葉に置き換える。

3.00 言葉は他者との共有可能性を持つ。

3.01 名付けとは、認識像の客観化である。

3.10 認識主体にとって、自身の認識像は主観的体験として定立される。

3.101 それ故に、認識主体にとって自身の認識像は、分析不可能である。

3.102 それ故に、認識主体にとって自身の認識像は、比較、評価が不可能である。

3.103 認識主体にとって、質感は主体に属するが故に、端的に定立されるのみである。

3.11 認識主体にとって、他者の言葉は客観的解釈として比較、評価が可能である。

3.110 認識主体は他者の質感を知り得ない。

3.111 認識主体にとって、他者の質感は、言語化された客観的解釈としてのみ立ち現れる。

3.2 認識主体は、解釈を言語化することによって、その解釈に分析、比較、評価可能な客観性を獲得する。

3.3 解釈は、その価値を伴ったまま言語化される。

3.4 それ故に、解釈の対立は価値観の対立となり、ヒトは血の涙を流す。

3.40 主観的質感としての解釈・価値を、言語化せずに主観的体験として定立したまま、「私だけに分かる体験的知識」によって、言語化された他者の客観的解釈を裁くことは誤謬推論である。


さて、ここで示したのは、以下のスキームである。


①認識(意味の発見) → ②解釈(価値の付与) → ③名付け(客観化による比較、評価)


対象を把握した認識主体は、このような順序で認識内容を処理する。

そして、付与された価値が、外界に働きかけるための動機(ここでは言語化して評価に晒すこと)となる。

次は、「動機」という概念を分析してみる。