一粒100万円のダイヤモンドに、我々は本当に100万円の価値を感じているのだろうか?


猛暑の日に喉が渇けば、我々は自販機の140円の「おいしい水」を、少々お高いと思いつつも購入するだろう。その時我々は、その水に140円以上の価値を感じたのだ。

しかし、普通の庶民は、100万円のダイヤモンドのために、100万円を用意しようと思うだろうか?

「いくら貴重だと言われても、綺麗な石ころ一つにそこまでする値打ちはない」

これが正直な印象ではないだろうか?ワタシだけかも知れないが。(笑)

つまり、私にとっては、ダイヤモンドは100万円を支払うほどの価値が無いのだ。


一粒100万円のダイヤモンドを即金で購入する人は、年収数千万円もあるような人だろう。

こういう人は、道楽のために100万円をポンと出せる余裕がある。

そして、そういう人と私のような庶民では、そもそも「100万円」に感じる質感が異なる。

私にとっては、ダイヤモンドよりも「100万円」の方が貴重で有用で有難いものなので、交換取引が成立しないのだ。ダイヤモンドなんて、せいぜい100円であれば購入してもいいくらいの、タダの綺麗な石ころに過ぎない。


もし、ダイヤモンドの価格が完全に市場原理で決定されていたらどうなるだろう。

私のような庶民が中心の競り市では、「珍しい綺麗な石ころ」なんて、1万円にも届かないのではないだろうか?


では、ダイヤモンドの価格は、誰がどんな基準に基づいて決定しているのだろう。

私は業界の詳しい事情は知らないが、結局は目利きの鑑定人が、宝石マニア間の相場を考慮して決めているのだろう。つまりダイヤモンドの価格は、存在論的に分析すると、実は対象の「性質」ではなくて、「社会的仕組みとして存在」なのだ。

価格とは、認識主体である人間が、その都度の事情に応じて決定している「仕組み」に過ぎない。

「市場の需給バランスによって」とか言ってみたところで、その需給バランスを考慮して最後に値札を貼り付けるのは人間だ。

マーケティング・リサーチ結果から客観的に算出された最適な価格設定であっても、そのリサーチ結果を妥当と判断して、最終価格決定にゴーサインを出すのは人間だ。


しかし経済学は、議論の客観性を担保するために、価格という客観的数値指標を絶対的な評価軸と見做して議論せざるを得ない。

価格を「市場の見えざる手」という科学法則(?)によって決定される対象の性質と見做さざるを得ない。

しかしこのような捉え方は誤謬ではないだろうか?

人は対象の認識において体験する質感によって対象の価値を判断する。

その質感としての価値を、例えば価格に置き換えたものが対象の経済的価値なのではないだろうか?

しかし、価格をアプリオリに与えられた対象の性質と見做してしまうと、その価値は対象の質感ではなく、価格の質感と置き換わってしまう。

100万円のダイヤモンドは、至高の価値が感じられるから「100万円のダイヤモンド」なのではない。

「100万円」という値札が付いているから、至高の価値があると判断されてしまうのだ。


今日の経済の混乱と不安定化の背景には、このような倒錯した捉え方があるように思われる。


話が錯綜してきた。

ちょっと仕切り直してみよう。