我々が体験する「質感」は、生得的なものである。

我々は、「赤」という言葉を教えてもらう前から、赤の質感を体験的に知っていたはずだ。

赤ちゃんは、生まれて初めて目を開けた時、その目に飛び込んできた「赤の質感」を体験する。

その質感は、数字や言葉のように誰かから教えられたものではない。生得的に、そのような質感を体験できるようになっていたのだ。

数字だって、我々がそれを小学校で学んで理解できるのは、我々が「数の感覚」を質感として持っているからだ。

リンゴが1つ、リンゴが2つ、リンゴが3つ…

この感覚を質感として把握できなければ、あらゆる数的操作は不可能である。


さて、質感が生得的であるということは、我々が体験する様々な質感は、我々が体験する前には可能態として潜在していたということだろう。

我々は「赤」を目にする前から、可能態としての「赤の質感」を持っており、それが実際に「赤」を目にした時に、質感として顕在化したのだ。

このような可能態としての質感を、ここでは仮に「質感の元型」と呼ぶ。

質感の元型は、我々の認識を規定するフォーマット一般を指す。

プラトンのイデアも、このようなものとして直観されたのかも知れない。


我々は「質感の元型」を生得的に持っている。

そしてその元型は、我々が対象を把握することによって質感として「私」の中に顕在化し、そこに意味が生じる。※


意味は、認識主体としての「私」が、認識対象としての外界と接するその境界に生じる。

認識主体としての「私」は、私が「私」として在ることによって必然的に定立される。

そして「私」は、質感を体験しているということを通じて、それを喚起する外界が存在することを定立する。

質感の元型は、それ自体は可能態であり、これを現実態として「私」の中に顕在化させるのは、外界の認識である。

対象は、接触面から「私」に働きかけ、「私」の中に潜在する質感を「掴み出す。」

「私」は、接触面を通して、対象の中に意味を見出す。


すなわち、「意味」とは人が作り出すものではない。それは人が発見するものである。

「私」は、自身の内に潜在する元型を、外界の認識を契機として、顕在化した質感として発見する。

これは、外界の対象に潜在する意味を発見するということと表裏一体である。

我々が、経験したことのない新たな対象を見出し、新たな質感を知ったとしよう。

その新たな質感は、我々の中に潜在していた元型の顕在化であるので、それは新たな質感の「作出」ではなく、隠された質感の「発見」である。

また、我々がその質感を「元型」として生得的に持っていたのなら、我々が新たな対象に見出した新たな意味は、それは新しい意味の「作出」ではなく、予め対象の中に潜在していた意味の「発見」として体験される。


「外界の対象の意味」は、それを認識体験する「私の中の質感」と同義である。

「質感」は何らかの様態で存在する対象の体験であり、その体験を「私」は「意味」として受け取る。

このようにして、存在論と意味論は統合される。


以上の議論を踏まえて、次節では改めて「神と祈り」について論じてみる。



コレは何を言ってるのか、誰にも理解できないかも知んない。(笑)

説明すんのって難しいっす。(;ω;)



※なお、このようなスキームは、例えば「ユングのアーキタイプ」とも関連し、神秘体験が人の生き方や考え方を根本から変えることがあるその原因についても多くの示唆を与えるが、それらについては別途改めて論じる。

ユングのアーキタイプもまた「元型」と訳されるが、ここでは区別するために、質感の場合は「元型」、ユングを説明する場合は「アーキタイプ」と称する。