クリスマスが近づいて来るとどこかで語られる、こんなエピソードをご存知だろう。


「サンタさんは、本当に存在するの?」

と子供に尋ねられた牧師さんが、

「この世に愛や理想が存在するように、サンタクロースも存在するのです。」

と答えたというヤツである。


我々は机の上のリンゴを目にした時、そこに「赤くて甘くてツルッとしてズッシリした果実」というような意味を受け取っている。

こういう風に、実体を対象とした場合、「意味」の有り様の議論は単純で分かりやすい。

ここでの「意味」は、認識対象とする外界の実体を指示する概念を定義したものであり、それが我々が体験している質感の表現となる。

それは認識プロセスをなぞるだけで片が付くのだ。


しかし、愛や理想やサンタクロースのような、実体なき概念の意味になると、話はややこしくなる。

概念自体は、我々が頭の中で想起するものである。それはいわば、我々の中にある。

しかし、その我々の中にある概念を対象化して、「愛とはあんなもんだ」「理想とはこんなもんだ」と語り始めると、それは論理空間においては主体の外にある対象として扱われる。


極論を言うと、愛や理想なんて、我々が勝手に想定しているだけの虚構である。

しかし、その虚構には意味があり、我々はその意味を動機として判断し、行動し、世界をほんの少しだけ変える。

ビリヤードの玉突きのように物理的相互作用を原因とするのではなく、意味を動機として世界を変えているのだ。ここに心的概念の面白さがある。


意味とは何なのか?

これをキチンと考えるには、実体なきものを、虚構、幻想などといって無視することはできない。実体なきものの有り様とキチンと向き合い(もちろん「キチンと」である)、認識主体としての「私」がそれをどう感じるかだけでなく、外界との関わりをもパースペクティブに入れて考える必要がある。


では、具体的な議論をやってみよう。