少し日が空いたので、ネタを忘れかけている。
(-。-;
ここまでは、「愛」を「肯定的な価値評価」という漠然としたニュアンスで議論してきた。
これに対して、「無関心」というのは、対象を認識してはいるが、その対象に心動かされるコトがない状態、有り体に言うと「価値評価」がゼロでプラスにもマイナスにも振れない状態であると言える。
「プラスの価値評価=愛」という大雑把な定義が可能であれば、「無関心」とはその「愛」が存在しない状態であるので、これは「存在の有無」という意味での対立項であると言える。
もちろん、マイナスの価値評価は無視しているので、コレはあくまでも一方通行の非対称な対立関係ではあるが。
ここで気になるのは、「愛」という言葉の多義性であろう。
「愛」といっても、性愛、友愛、家族愛、ガンダム愛など、様々ではないか。これらは同じ感情ではない。
多義的な概念を一緒くたにして議論するのはおかしい、というのは、他ならぬ私自身がいつも言ってるコトである。(笑)
我々は「愛」という言葉に託して、さまざまな肯定的感情を語る。様々なヒトが語る様々な「愛」が、同じ感情なのか別の感情なのかは確かめようがない。
ただ、人や状況に応じて、「愛」にも様々な様態があるのは確かだろう。
「愛」は人それぞれであり、一般化できない。だから、人それぞれの「愛」とその感性を大切にしましょうというワケだ。
しかし、「愛」が「人それぞれ」で、一般化不可能なものであるなら、そもそも愛について何かを語るのはナンセンスであろう。
自分の愛は自分だけのものであって、他人には何の参考にもならない。他人にそのアイデアを聞かせようとせずに、ただ黙って自分の愛を実践していたら良いのではないだろうか。
これに対し、行動主義者であれば「愛」を「利己的遺伝子説」で完全に説明し切ってしまうだろう。
行動主義は、客観的に観察される行動の傾向から、その動機を生み出した生物学的メカニズムを推定する。
「異性間の愛情は、自分の遺伝子を残すための性的行動の動機」
「子供に対する愛情は、自己の遺伝子を引き継いだ子供を守ることで、自分の遺伝子を残すための行動の動機」
「配偶者や友人に対する愛情は、自分の遺伝子を守ってくれる仲間を守ることで、自分の遺伝子を残すための行動の動機」
「仕事や趣味の対象に対する愛着は、集団内での自分の適応度を上げることで、自分の遺伝子を残すための行動の動機」
このように、外から観察される行動を、自然淘汰によって選抜された機能と解釈するなら、「愛」は全て利己的な動機であると結論されてしまう。(笑)
そして、「無関心」であるということは、自分の遺伝子を残すことに対して、その対象が何の影響もないと判断した場合の行動の原因、すなわち「動機の欠如」という話になる。
さあ、どっちが正しいのだろう?(笑)
私は「愛は人それぞれ」とは思わない。
「愛」は目に見えないので、人それぞれが語る「愛」が異なるものなのかどうかなんて分からない。
「愛」はその様態において多義的だが、その多義性が完全に個人的なものとして人それぞれバラバラであると見なすなら、そのようなニュアンスにおいて語られる「愛」は中身のない矛盾命題である。
それはオカルトの3Uのような空想上の類型概念であり、ナンセンスの海に沈んでしまう。
そうではなくて、実質のあるニュアンスとしての「愛」を探せば良いのだ。
「性愛」「家族愛」「友愛」「ガンダム愛」、それぞれ様態は異なるが、これらはそれぞれ別個の接頭辞を付けて区別されている。多義性は、その「愛」を向ける対象によって区別されており、それほど無茶苦茶ではない。
そして、これらに共通する基底としての「愛」とは、つまり「肯定的な価値評価」なのではないだろうか。
では、その「肯定的な価値評価」とはつまり、「自分の遺伝子を残したい」とする隠された動機を持つ衝動なのだろうか?
ここに行動主義の限界を私はいつも感じる。
「隠された動機」とは何なのだ。(笑)
行動主義は、目に見えて、誰でも確認できる客観的行動に基づいて、その動機を推定する。
と言っておきながら、意識もできない「隠された動機」などと言うオカルトを持ち出してしまったら、何でもアリのフリーハンドではないか。
「あなたがラーメンを食べたいのは、ラーメンの形に性的ニュアンスを見ているからだ。それは自覚のない隠された動機である。」
こんなコトを言い出したら、フリーハンドで何でも思うように解釈できてしまう。(笑)
また、全ての人間が、自分の中の想いや衝動を行動に反映させる訳ではないだろう。人間は我慢することもある。
目に見える行動を、直裁的に解釈するだけで、その動機を説明できるのか?
川で溺れている子供を、我が身も顧みずに飛び込んで助ける行為は、本当に包括適応度で利己的行動の変形として説明してしまえるのか?
我々が「愛」の反映と見做している「愛情行動」が、元々は淘汰によって選抜され、遺伝的集団の特徴として獲得されてきたという点は否定しない。
しかし、その起源が何であれ、今、我々がこういった行動をとるとき、その動機は「遺伝子」ではないだろう。
「損して得取れ」などと言うが、我々は明らかに「得」がないと予測される時に「損」を取ることだってできる。
我々は認識主体として、「利己的遺伝子説」の予想に逆らうように行動することだってできるのだ。
「愛」とは、「遺伝子」や「自然淘汰の神様」の指令ではない。
それは「私」の肯定的価値判断である。
それが、その時の感情や行動に反映されるその質感と様態は様々であるが、その差異は、おそらく「愛」ではなく、対象によって規定されている。
その基底にあるものは「愛」としか言いようがない。