「耳なし芳一」という昔話の怪談は、誰でもご存知だろう。


盲目の琵琶法師である芳一は、平家の怨霊に夜な夜な呼び出され、請われるままに平家物語を語って聴かせる。それが怨霊とは知らずに。


夜な夜な何処かに消えてしまい、日に日にやつれていく芳一を不審に思った人々が、彼が怨霊に取り憑かれていることを突き止める。

そして、彼が連れて行かれないよう、全身くまなく経文を書きつけた。


その夜、迎えに現れた怨霊には、芳一の姿が見えない。

怨霊には、経文を書き忘れていた耳だけが浮かび上がって見えた。

そこで怨霊は、迎えの使命を果たした証拠として、芳一の耳を引きちぎって持って行った。


結構、コワイ話である。(;ω;)


経文とは、当時の人々にとっては「真理の言葉」だったのだろう。

そしてそれは言霊でもある。すなわち、妄執の化身である怨霊を撥ねつける力があると信じられていたに違いない。


ネット霊界に溢れるスピリや自己実現セミナーなどのカルト、あるいはネズミ講は、人々の妄執の化身であり、騙される人々もまた、盲目であるが故に、妄執に囚われてしまう。


騙される人たちは、根は素直で真面目であることが多いように思う。

彼らは、スピリ本や主催者が騙る「真理の言葉」で全身を満たすことで、妄執を跳ね除けようとしているのだろう。

しかし、人間には必ず隙がある。妄執に囚われる人間は、隙があるから妄執に囚われるのだ。

その隙とはすなわち、経文を書き忘れた「耳」である。


こういった「経文」で全身を満たそうとする人々は、耳を失ったかのように、他人の言葉が聞こえなくなる人が多い。

いや、経文で全身を満たそうとするからこそ、他の言葉が耳に入らないのだろう。

芳一が耳を引きちぎられたのは、必然的な結末だったのだ。


気ぃ付けよっと。(笑)