「愛の反対は憎悪である」

ここにおいて語られる「愛」とはどのようなことを指すのだろう?


素朴な意味で語られる「愛」が、プラスの価値評価であることを疑う人はいないだろう。


 好きな人

 好きな食べ物

 好きな動物

 好きな音楽

 好きな本


いずれもプラスの価値評価であり、こういった感情に対して人は「愛」という言葉を使う。

そして、そこには「大きさ」の感覚がある。


これに対して、この感情がマイナスにひっくり返った時、人はそれを「憎悪」とか「嫌悪」と呼ぶ。

そこにもやはり「大きさ」の感覚がある。

この「大きさ」を絶対値として捉えると、「愛」と「憎悪」は同じようなものだと言う人もいる。

「愛は時として憎悪にひっくり返る。それ故にこれは同じ感情の相貌であり、結局それは執着なのだ」などと言ったりもする。


しかし、これはどうなのだろう?

私は「愛」と「憎悪」が反対のベクトルであるとは思う。しかし、これらを「執着」などという感情で統合できるとは考えにくい。


好きな人に振り向いてもらえず、そればかりか冷たくされてしまい、愛情が憎悪に「ひっくり返って」しまった。

こういうコトは確かにあると思う。そしてそのような場合、その憎悪は愛情の大きさに起因するとも思う。

しかし、同じ一人の人間に対して、「愛」と「憎悪」という相反するアンビバレンツな2つの感情を持ったからと言って、それらが同じ感情だと言えるだろうか?両者には、心的な因果関係はあると思うが、そのことは両者の同一性の根拠とはならない。


客観的認識においては、対象の同一性は、その個体性に依拠している。

目の前にある机は一つの机であり、それはそれを「机」という一つの個体として認識しているからだ。

しかし、主観的な意味においては、目の前の一つの机が多義的なものとして認識され得る。

以前、「命の大切さ」の論考でも論じたが、例えば私が捕まえた1匹のタマムシは、「手放したくない自然の宝石」と「自由にしてあげるべき大切な命」という相貌を持つ多義的な存在だった。


ある人が、普段は優しい紳士なのに、突然、烈火の如く怒鳴り始めたら、我々はその人を「二面性がある」などと評するだろう。

その人が示した相貌を、自分の中で1つの人格として上手く統合できないとき、我々はそれを「二面性」とか「二重人格」などと評する。

それはつまり、その人が我々にとっては多義的な存在として捉えられているということだ。

だから、一人の人間に対して「愛」と「憎悪」を同時に感じるのだとしたら、それはその人が自分にとって多義的な存在であるということなのだろう。

こういう風に、客観的対象とその主観的意味が一対一で上手く対応できない体験を繰り返すと、意味を付与する機能が混乱し、時には統合失調症(旧名:精神分裂病)発症のキッカケとなり得ることはよく知られている。


つまり「愛」と「憎悪」は別の感情であり、別の意味である。

「愛」と「憎悪」は、反対のベクトルを持つ価値評価だが、対照関係にある相貌ではない。

愛が冷めて憎悪が生まれることはあっても、愛がそのまま憎悪に裏返るものではないだろう。

同じ1人の人間に対して愛と憎悪を同時に感じることがあるのなら、少なくとも愛は消えていない。そこに憎悪が加わっただけだろう。


「愛の反対は憎悪である」

これは、単に両者の「ベクトルの向き」においてのみ言えることであろう。