今回の論考は、久しぶりに長々と20回を越えてしまった。

初めの方の話を読み返すと、すでに自分でも忘れてしまっている。(笑)

ちょっとここらで寄り道休憩してみよう。


科学的探究は、その研究対象が存在するということをアプリオリな前提としている。

物理学は、物理的作用を引き起こす物理的実体の存在を前提として、その性質や振る舞いを調べる。

生物学は、生物の存在を前提として、その性質や振る舞いを調べる。

心理学は心を、社会学は人間社会を、数学は数的秩序を、それぞれアプリオリな前提として置くことで成立する。


これに対して、「こういった前提すら疑い、探究するのが哲学だ」などとよく言われるが、これは半分嘘であろう。(笑)


認識論は、我々が何かを認識するということが前提となっている。認識が幻想なら、認識論はナンセンスである。

存在論は、何かの対象が存在するということが前提となっている。存在が幻覚なら、存在論は無意味である。


認識論における「認識」という前提を疑うためには、存在論の視点が必要である。

存在論における「存在」という前提を疑うためには、認識論の視点が必要である。


存在論の立場から、

「我々が持つ(と思い込んでいる)認識機能は、脳内化学物質の相互作用に還元される。よって認識主体が何かを認識するという捉え方は幻想である。」と見做すのが、現代の思想界を席巻している行動主義である。

逆に、認識論の立場から「存在とは我々が『そのようなもの』と見做しているだけの曖昧な対象でしかない。それは心、あるいは認識機能が生み出す幻覚である。」と見做すのが、現代のアングラ・オカルト界を席巻するスピリやシミュレーション仮説のような唯識論・唯心論もどきである。


つまるところ、存在論は認識なんて胡散臭いと言うし、認識論は存在なんてアテにできないと言う。

これらは認識論と存在論の「不幸な」出会いだと言える。


これではいけない。(笑)


認識論は存在を定立することができる。

認識主体が何かを認識するということは、その認識対象が客体として認識主体の外部に存在するということである。主体の外部に客体がなければ認識は起こらない。


また、存在論は認識を定立することができる。

「存在」をそのニュアンスによって区分することで、「体験の質感としての存在」として認識主体を定立できる。ニュアンスの異なるものを何もかもごちゃ混ぜにしたのでは、実体性の無いものが存在論の領域から弾かれてしまう。


このように、認識を分析することによって、ヒトは客体としての外部の存在を定立できる。

逆に、存在を分析することによって、ヒトは認識を「体験の質感」として定立できる。


これが認識論と存在論の「幸せな邂逅」である。

認識主体は客体の存在を求め、客体の存在が主体の認識を導く。

つまり、認識と存在は相補的な概念なのだ。

このような構造は、東洋思想の太極に似ているが、ベースの異なる思想を見かけのアナロジーで安易に同一視すると、カテゴリー・エラーの陥穽にハマってしまうので慎重にならなければいけないだろう。(笑)


さて、以上のような捉え方は、別に真新しいものではない。

これらは、我々が普段の日常生活において意識せずにやっていることである。

我々は見たもの、認識したものを素朴に存在すると見做しているではないか。

存在するから認識できるし、認識できるということは存在するという風に捉えているのだ。


もちろん、我々の認識は不完全なので、時には幻覚や幻想に惑わされることもあるだろう。

しかし、完全でないからと言って、丸ごと捨ててしまう必要もないだろう。

恐らく我々の認識は比較的よくできていて、80点くらいは取れるようになっているのだ。

あとは、残り20ポイント分の陥穽に騙されない慎重さと理性を手に入れたら良いのだろう。


今回の寄り道はこんなもんで。(笑)

次の課題に進もう。