「机の上にリンゴが存在する」

「この国には裁判員制度が存在する」


上の2つの命題における「存在」は、同じニュアンスだと言えるだろうか?


机の上のリンゴは、実体として存在している。

その実体性には体験的な客観性がある。リンゴは今そこに、形と大きさを持って存在し、それが実体として存在することを、他者とともに手に取って確かめ合うこともできる。


これに対して、裁判員制度は実体ではない。

裁判員制度とは人が考案した概念である。多くの人間が、そのような約束事に同意し、それに従って判断・行動することによってその存在が担保されている。

つまり、裁判員制度は実体ではないが、そのような約束事に規定された人間の行動様式が、実態として存在している。


このように、「存在」という言葉は多義的である。


後者の「実態としての存在」のあり様を敷衍して、「存在なんて所詮は人が『在る』と認めているだけのものだ。机の上のリンゴだって、集団幻覚でないと言い切れるのか?実体なんて幻想であり、それは多数の人間が『そこに実体がある』と認めている実態があるだけではないか。」などという議論も見かける。


そういう安易な相対論で思考停止したい方は、そうなさったら良い。言葉の上だけならどうとでも言えるのだから。

なんなら、この世の全ては夢幻であると見做して、幻のナイフを自分の体に突き立てて、幻の痛みを感じ、幻の家族に迷惑をかけ、幻の友人を悲しませながら、幻の人生を終わらせてみるのも一興であろう。体験的な「手触り」よりも頭の中の概念を重視し、結果、言葉遊びに終始する人間には、現実は理解できないと感じる。


しかし、「机の上のリンゴ」が単なる集団幻覚ではないという前提で生きることを選ぶのでれば、

実体と概念の識別を学ぶのは有意義なことだ。

実体と概念は別物だという前提を認めるならば、、これらを「存在」という多義的な言葉に引き摺られて混同する議論は、ナンセンスな屁理屈にしかならない。

目の前の「現実」を受け入れ、それに従って生きるのであれば、現実と幻想は異なるということを認めざるを得ないだろう。


例えば、「見える人にしか見えない」というエピソードがある。霊やオーラなどがそうだ。

見える人には実体だが、見えない人には概念にしかならないので、見えない人には理解できないのは仕方ないなどと言われる。


しかし、これは素朴な勘違いである。

よく考えてみよう。

「見える人にしか見えない」という話は腐るほどある。

それは一部の「見える人」にはアリアリと見えるが、他の大多数の人間には見えない。

そして、見える人にも見えない人にも共通するのは、それを掴んで確かめたり、何かの機械で直接計測することができないということだ。


これに対し、「見えない人にのみ見えない」という話があるだろうか?

例えば、皆が確認できる「机の上のリンゴ」が、ある人にだけはどうしても見えないし触れない。

そしてさらに、「見えない人」がリンゴがある筈の場所に伸ばしたその手が、リンゴをすり抜けてしまうので、どうしても掴めないなどと言うバカなことがあるだろうか?


つまり、実体としての存在の有無は、常に非対称な関係にある。

一部の人にのみ実体として存在すると感じられるものが、実は存在しない幻覚だったというコトはあり得る。

しかし、実体として存在するものが、一部の人にのみ存在しないと感じられるなどというコトはあり得ない。

紫外線は見えないし触れないが、計測機械さえあれば誰でも計測して確認するコトはできるし、見えなくても誰だって日焼けするのだ。ある人が計測した時だけ機械が反応しないとか、ある人だけ日焼けしないなどというバカなことはない。

つまり、実体性というのは、認識主体に依らず体験的に共有されるということが必要条件になる。


もちろん、世界中の人間の9割が霊能者になって幽霊が見えるようになったら、その時には「実体として存在するものが、なぜか一部の人にはその実体性が確認できない」というコトが経験的な真実となるかも知れない。

しかし、実際にはそのようにはなっていないのが紛れもない現実である。