前節では、「現実」という言葉には「現実」と「現実像」という2つのニュアンスが含まれると論じた。


「現実」は、我々の認識とは無関係に成立している事態であり、それは我々の認識の外側にある。

これに対して、「現実像」とは現実に対する我々の解釈であり、我々の認識の内部に形成される概念である。


しかし、我々は常に認識というフィルターを通じて外界を把握するのだから、我々が知り得るのは常に「現実像」のみなのではないだろうか?

それが視覚像であろうと論理像であろうと、それらはつまるところ、我々の認識の内部に形成される像であり、その向こう側にある「現実」を、我々は原理的に把握し得ない。


では、現実感覚とは幻想に過ぎないのだろうか?


この議論をこのまま敷衍していくと、結局、現実と幻想は等価であるとする不可知論に行き着いてしまう。このような安易な相対論で思考停止すべきではない。

改めて整理してみよう。


可能態としての様々な「事態」は、未来における可能性として潜在している。

この先、我々の目の前に現れる犬は、歩くかも知れないし、走るかも知れないし、泳ぐかも知れない。

これらは、未だ可能態として想定される事態である。


そして、これらの事態のうち、たった一つの事態が、今この瞬間に、事実として我々の目の前で成立する。それは、成立した事態としての事実と、成立しなかった事態としての反事実が分離する瞬間であり、それを我々は目の前に展開する現在の「現実」として生々しく体験する。

「犬が歩いている」のだ。


さらに、我々はこの現実を認識し、現実像を形成する。この認識という出来事は、事実と反事実が分離した直後に起こり、そこで認識した事実が、過去の記憶として残存する。このような、現在の直後から過去に置き去りにされていく顕在化した事実(と潜在化した反事実)の記憶が「現実像」である。

「犬は歩いていた」

それは、今となっては体験しようのない過去の事実であり、現実像としてのみ語られる。(注)


「現実と現実像」の違いは、無時間的で静的な構造として捉えていたのでは不明瞭である。

これらは、時制構造の中で動的に展開する「事態→事実と反事実」として捉えることで明らかとなる。


「現実感覚」は、今現在感じている体験である。

コトが起こった後に残る現実像を分析しても、現実感覚は解明できない。

現実像の事実性は、その事実の論理的整合性において説明し得るが、それはあくまでも概念であって、体験的な現実感覚とは無関係である。




(注) これらの議論は、物理的な時空間におけるパラレルワールドのような話ではない。あくまでも論理空間における時制構造の話であることに留意されたい。

ここで語っている「過去」「現在」「未来」は、物理学的に定義された時間軸上のプロットを指す言葉ではない。

しかし、我々の認識は、時間・空間のフォーマットに規定されているので、このような形でしか説明できないのだ。

論理的可能性と物理的パラレルワールドを混同してしまうのは、大衆向け「オカルト科学」における素朴な勘違いの一つであり、限りなく第三種に近い、第二種の勘違いコントである。