「ツチノコを目撃した!」

という方がおられるが、彼は一体何を見たのだろう?


いや、別に疑っているワケではないのだ。(笑)

彼は確かに何かを目撃したのだろう。

そして、目撃はしたものの、正体が判明しなかった其奴を、「ツチノコ」と称しておられるのだ。


その正体は、結局ネズミを飲んだマムシだったのかも知れないし、逃げ出したペットのアオジタトカゲだったのかも知れないし、腐った丸太だったのかも知れない。

一昔前に流行った、ズングリした体型のヘビの新種というのは考えにくいだろう。そんな新種がいるなら、それなりの個体数を維持しているはずなので、真面目に探したら実物なり何らかの痕跡が見つかる筈だ。


とにかく、ツチノコは確かにいるのだ。

その正体が何であろうと、「彼が目撃した正体不明の何者か」という定義におけるツチノコは、確かに実在する。いや、実在した。

しかし、その正体が何であったのかは、彼が目撃したその時その場に行かないと解明しようがない。かくしてツチノコの正体は永遠に藪の中となる。


「ツチノコって、アオジタトカゲの見間違いじゃないの?」

と言ってみたところで、必ずそうではない理由を主張する人がいる。

そもそも、日本全国で目撃された「ツチノコ」が、全て同じものかどうかも怪しい話である。

ツチノコとは、「彼が目撃した正体不明の何者か」なのだ。「彼」の数だけ多様なツチノコがいてもおかしくない。

だから、誰かが主張する「ツチノコの正体」には、必ず誰かが反論する。そして、誰が正しいのかは、確認しようがないのだ。

「彼が目撃した正体不明の何者か」は、その時その場でしか確認しようがないのだから。


例えば、ツチノコを新種のヘビだと見做したい方は、多様な目撃譚からそのような「証拠」ばかりをつまみ取って提示する。そして、それが在り得るという可能性の議論を頭の中で組み立てる。

直接検証可能な実物が何も無いところで、頭の中だけで組み立てる話なら、どうとでも言えるのだ。

そういう方に対し、草むらの中のアオジタトカゲが目撃譚にあるツチノコそっくりに見える写真と、目撃例があった頃にペットショップでアオジタトカゲが輸入されていた記録を誰かが提示しても、「それはアオジタトカゲであってツチノコではない」と言われたらそれで終わりである。可能性で判断する者には蓋然性の議論は理解できないのだから。


かくして、ツチノコは永遠の謎となる。

それは、ツチノコが捕まってないからでも、新種生物だからでもない。

「彼が目撃した正体不明の何者か」は、原理的に解明不可能だからなのだ。

だから、ツチノコについて何を語ろうとも、その真偽は判断できない。何を語ってもそれは真実とはならないし、誤謬にもならない。それは理性とは無縁の存在である。

分かる筈がないが故に言いたい放題が許されるコトについては、誰もが一言コメントしたくなってしまうものだ。

誰も否定できないところで憶測を飛ばしたいという、得体の知れない本能的衝動に突き動かされた者たちが、理性の光が届かない領域に棲むツチノコの正体を、時代を越えて語り続けるのだ。


これが、もはや妖怪化してしまったツチノコの正体である。(笑)