「そこに命がある」ように感じる。


なぜ私は、その場所に「命」なる何物かが在るように感じてしまうのだろう?

「命」とは形あるものではないのに、あたかもそれが実体であるかの如く、目の前の空間に「命」を定位してしまうのか?


人間は、自分の外部の事物を空間上の配置として認識する。カントはこれを「直観の形式」と呼んだ。

人は、感覚を通じて認識される外部の事物を、「空間」のフォーマットによって認識するし、それ以外の様態では認識できない。

視覚に飛び込んできた映像を、私は三次元空間の配置として把握するし、それ以外の様態なんて想像もできない。

音は三次元空間を伝播してくるし、匂いは三次元空間に拡散する化学物質である。触感はまさしく三次元的実体の感触だ。それ以外の様態で把握できるだろうか?


さらに、SNS上のやり取りは、ネット空間という場でのやり取りとして比喩的に説明される。

実際には、「ネット空間」などという広がりを持った空間は存在しないし、「ネット空間」内で物理的相互作用が起こっている訳ではない。

しかし、そのような仮想空間を仮定して、そこに人が集って相互作用していると見なすことで、そこでのやり取りをイメージしやすくなる。

映画マトリックスだって、架空の電脳空間を、まさしく空間の視覚イメージで表現したからこそ、その世界観を把握できるのだ。


つまり、外部の対象が実体であろうと概念であろうと、それを外部から与えられるものとして把握する時点で、空間上の配置に置き換えざるを得ないのだ。


さて、「命」の質感とは、理屈で説明するなら「生きている」という感覚である。

子供や、猫や、チンチラを抱き上げた時、私はその温もりや感触から「生きている」という質感を感じる。

或いは、あたかも人間や動物のように動き、声を出すロボットの姿から「生きている」という質感を感じる。

その質感は外部から受け取る感覚なので、それを「そこに在る何物か」として空間上に配置して認識してしまうのは、私の本性に根差すことだ。

そして、私の認識の中で外部空間に配置された質感を、私は「命」と感じる。

これは、外部から受け取る感覚を、空間上に定位てきるような「物的な現れ」として認識してしまう心の誤謬推論である。

そして、それをそのまま間に受けて「命が宿る」「命を持つ」「命が存在する」などと、物的な状態を持ったものと見做すのは、唯物論の陥穽であろう。


この心の誤謬推論を、理性によって陥穽であると判断し、空間上に配置することを拒否することで、私は、本能にフォーマットとして織り込まれた唯物論の鎖から解き放たれる。

私が感じているのは、物的な「命」ではない。

「命」とは、共感の眼差しによって感じ取れる、純粋な質感の体験なのだ。