さらに分析してみよう。

つまり、命とは何なのだろう?


「生き物には命が宿っている」

「命はかけがいがないものなので大切にしましょう」

などと軽く言ってみたところで、我々はその「命」を目で見たり手で触れたりして確認できるわけではない。そこには宿ったり大切にしたりできる客観的な対象が存在するわけではない。

そうではなくて、我々は「生きている」という状態を、比喩的に「命が宿っている」という表現で言い換えているだけなのだ。

つまり、「命が宿る」とは、単に「生きている」という状態を比喩的に表現する命題であり、命とは生きている生き物に共通する性質を表す言葉だということだろう。

だから、「命を大切しましょう」とは、「生きている状態を止めないように注意しましょう」的な比喩表現だということだ。


「命」と称される何物かが存在する訳ではない。

これはあくまでも比喩表現としてのみ在る概念であり、それをなんらかの客観的対象と見做して「命とはあんなもんだ、こんなもんだ」などと「命」の性質を説明することには何の意義もないのだ。


それにも拘らず、なぜ我々は、そこに「命が宿っている」と感じてしまうのだろう?

これは、実際に生きている生き物だけではない。

私は、ペッパー君に命が宿っているように感じてしまった。アイボに命が宿っているように感じる人もいるだろう。

大きな石や、人形、古い道具に命が宿っていると主張する人もいる。

これらを誤謬推論と客観的に切り捨てるのは簡単だが、我々が主観的に感じてしまうコトを根拠に語られる「命」を、客観的に分析することには、これまた意義がない。

ここで問題となるのは、「命」とは、生物学的な意味での「生きている」を説明する比喩表現ではないということだ。

「命」とは、我々が主観的に「生きている」と見なす状態を説明する比喩表現である。

だから、ロボットも、石ころも、道具や人形も、生物学的には生きていないが、我々は時として「命が宿る」と見なしてしまうのである。


こういった事情を考えずに、物的科学の説明体系を無造作に当てはめて「命」を客観的に説明しようとしたら、それは単なる生物現象の比喩的言い換えになってしまうか、或いは心霊主義の誤謬推論を導いてしまう。

そこにあるのは、主観的体験の質感としての共感的眼差しが欠落し、本来の豊かな意味が失われた「命なき命」であろう。


つまるところ、「命」を対象化して客観的に分析すると、そこには比喩表現以外に何の実体も実態もないことが判明する。

「命」とは主観的に味わうべきものなのだ。