主観的体験の質感を、客観化の手続きを経由せずにそのまま「移植」するにはどうしたらいいのか?


まずは詩的比喩から。


3節で述べた「さくらんぼ」について、もう一度考えてみよう。

「さくらんぼ」の第一義的意味は、あの小さくて赤くて甘酸っぱい果実である。

そして、大塚愛が歌う「さくらんぼ」は、可愛い恋人たちを表す巧みな比喩表現である。

我々は、あの曲を聴いて、単に「恋人」という概念だけでなく、そこに伴う可愛らしい生態や、甘酸っぱい恋の感触などの質感を感じ、共感するのである。

やっぱしこれを語るのは恥ずかしいが。(・・;)

なぜ、このようなことが可能なのだろう?


以前、「比喩表現」の論考で用いた例を挙げてみよう。


 花が歌う。


この命題は、主語の「花」と述語の「歌う」があり得ない形で結合している。

だから、この命題を「花」や「歌う」という言葉の持つ第一義的な集合的意味で理解しようとすると、訳の分からない戯言となってしまう。

しかし、これを比喩表現として受け取ると、例えば「春の花が咲き乱れる、歌いたくなるような嬉しい光景」という質感を受け取ることができる。

つまり、言葉が持つ第一義的な集合的意味を捨象し、個人的意味として用いることで客観化を逃れ、主観的体験の質感をそのまま伝えようとしているわけだ。

以前の「比喩表現」の論考でも、そういうことを構想していた筈だったのだが、「比喩表現とは何ぞや」に深入りし過ぎて忘れてしまっていた。(笑)


詩的比喩とは、そのような機能を持つのだろう。

詳しく味わってみたい方は、私が親しくしている、アメブロの芝崎あい氏の詩を読まれると良い。所々に作者の心が感じられる作品群である。


しかし、言葉による比喩表現は、先の「さくらんぼ」のように、集合的意味をアナロジーとして利用し、その配列を工夫することで成立している。

だから、そこで受け取る質感は、やはり聞き手の持つ質感に置き換えられてしまう部分がある。

さくらんぼの甘酸っぱい味わいは、人によって異なる質感であるのかも知れない。


もっと直接的な主観的質感の表現はないのだろうか?