先に論じたように、世界観と人生観は同じコインの表裏である。

世界観とは、世界の構造に対する説明である。
そして、その世界構造の中に己自身を位置付けた時、それが人生に対する価値評価をもたらす。
カルトな彼にとっての人生の価値とは、言うまでもなく、霊的世界の賢者として生きるということである。

ここで最後に、彼の人生観の性格を明確にするために、彼が創造した世界観をもう一度振り返ってみよう。

この世界は、物理的実体から成る物的世界と、霊的実体から成る霊的世界が重なった構造となっている。
物理的身体に、霊的実体としての精神=霊魂が重なって存在する。
物理的実体が物理法則に支配されるように、霊的実体は霊的法則に支配される。
すなわち、人間は物理法則と霊的法則の両面から規定される存在である。そして、死んだ後は、もっぱら霊的法則に従うことになる。

霊的法則の代表は、「カルマの法則」だ。
これは、生前の行いが死後の待遇を決定するというものである。
霊的世界には、霊格という絶対的な格付けがある。
生前に善行を行った者は霊格が高くなり、死後の待遇が向上する。
これに対して、生前に悪行を行ったものは、来世で苦労することになる。
善悪の基準というものは本来、相対的なものである筈だが、法則というのは絶対的なものだ。すなわち、死後の霊格を決定する絶対的な善悪の基準がある。
それは、霊魂の存在を認めるかどうかということである。
霊魂の存在を認め、霊的価値に従って生きることが善である。
逆に、霊魂を否定することは精神を否定することを意味するので、これは悪である。

以上のような、カルトな彼の世界観から、彼の人生観について我々には何が読み取れるだろうか?

「霊的法則に従う霊的実体」という発想は、「物理法則に従う物理的実体」のアナロジーである。すなわち、これは唯物論のパロディである。
精神、或いは心が肉体と異なる点は、その主観的な性質にある。
精神を「霊魂」と呼び、それを客観的に対象化して「霊的実体」として捉えた時、そこには精神という概念に特有の主観的性質はもはや存在しない。
それは、「物理的」という接頭辞を「霊的」という接頭辞に入れ替えただけの、ただの「実体=モノ」なのだ。

このように、生前に物的身体が物理法則に縛られていたように、死後の霊魂も霊的法則に縛られている。つまり、人は死後もその「体」を作る素材によって規定されている。
このような思想は、唯物論的心霊主義と呼ぶのがふさわしい。
「精神」「魂」などの心的概念は、ここでは物的概念として扱われているのだから。

次に、「善悪」という価値判断を、霊格という格付けに反映させるために、法則として絶対化するのは、素朴なドグマティズムである。
さらに、その価値評価に基づいて、人間自体を格付けするのは、選民思想の発想である。
そして、死後も続く「カルマ」という逃れようのない運命の鎖によって、ドグマの遵守を強制されるという発想は奴隷主義である。

つまるところ、人間はどこまでいっても特定の価値評価に基づく「心霊社会の序列」から抜け出せないし、死後もその奴隷暮らしは永遠に続くのだ。
むしろ、生前の社会的序列は、仕事上の役割など、特定の場面に限定される待遇に過ぎないが、死後の霊格は人間自体を規定し、地獄に落ちたり、来世の何十年かが影響される分、より苛烈である。

以上のように、人間は死後も永遠に、「自然法則」と「社会的お約束」の規定の中で生きる存在だということだ。
だから、せめてこの死後も続く新世界での待遇向上を目的として、霊界の差別的構造を受け入れ、功利主義的に生きるのが「正しい」生き方なのだ。
これが、新世界の賢者の教えの意味することである。

これらから言えることは、認識論的段階で述べたことの再確認となる。
カルトな彼の描いた、「新しい」霊的世界観は、人間社会の物的側面に対する歪んだカリカチュアでしかない。
人間は頭が硬いので、知らないことは想像すらできないのだ。
「原因不明で正体不明な未知の現象」を手掛かりに、認識を超えた形而上の新世界を語ろうにも、人はそれを知っていることの延長でしか語り得ない。

「語りえないことは沈黙すべきである。」
    L. V. ヴィトゲンシュタイン