自然法則からの自由に関するここまでの考察は、いささか概念的過ぎて上滑りしてしまったかも知れない。

これに対して、社会的お約束は人間が定めた恣意的な規則なので、ここは実例に即して考えてみよう。

まず、法律について。
刑法では、殺人は罪とされている。
ここで皆さんは、この規則による規定を「不自由だ」と感じるだろうか?
死んで欲しい人や殺したい人がいる方にとっては、殺人罪という規則の規定は「不自由」なのかも知れない。
しかし、そんな欲求を持っていない方にとっては、殺人罪の規定は不自由でもなんでもないだろう。むしろ、自分の身の安全が保証される、ありがたい規定ですらある。

もう一つ。
私が中学生の時は、「男子は長髪禁止。最低でも横が耳にかからず、後ろは刈り上げにする。」という校則があった。
当時はヤンキーブームだったので、剃り込みにリーゼントで決めたい方にとっては、甚だ「不自由な」規則だったようだ。
しかし、モノグサで、見てくれにこだわりがなかった私にとっては、髪型まで指定してくれる校則があれば余計な事に頭を使う必要がなかったので、何の不自由も感じず、むしろありがたい校則だった。ちなみに当時の私は五分刈りで通していた。

これらから分かるのは、以下のようなことである。
規則が在るということ自体が不自由なのではない。
自分の意に沿わない規則に規定されること、もっと言うなら、自分が好む規則を自分の意思で選択できないことが不自由なのだ。
ここには、先の「自然法則からの自由」と同じ構図がある。
所与の事態に対し、「私」が主体として決定、判断、選択、行動できるのが自由であり、他の主体によって「〇〇させられる」のが不自由なのだ。
規則によって規定されるかどうかは、自由かどうかとは関係ない。
「主体としての私」である限り、人は自由なのだ。